じぶんのことを「過敏だ」「繊細だ」なんて感じることがあります。
些細なことが気になって、それに囚われてしまうんですね。
でもよく観察してみると、じつは過敏になる対象ってぜんぶ「不快なこと」なんですよね。
各種神経症だって、結局はそういうことです。
「怖いこと、いやなこと、不快なことに過敏」なんです。
だから「わたしは繊細なのだ」とかいうのは、ぜんぜん違うと思うんですよね。
繊細になっているのは「不快なこと」に対してだけですから。
ぎゃくに「愉快なこと」「気持ちいいこと」「楽しいこと」「元気がでること」には鈍感なんです。
片方に繊細なだけで「繊細だ」なんて言ってじぶんを評価するのは、あまりにも横柄すぎると思う。
ていうかそのへんからして鈍感なんじゃないか。
じぶんの片方しか見られていないというニブさがある。
鈍感だから、繊細になってしまうんですよね。
「いいこと」に対して、鈍感すぎるんだ。
だから過敏な性格を治したいのなら「鈍感になりたい」なんて言っていたのでは、永久に無理なんだと思います。
むしろ、そのニブさを直さないと。
感受性をもっと高めないと。
子どもって、よほどイヤなことが続かない限りは基本元気ですよね。
感受性が高いからです。
感受性が高いので、しょうもないことにも感動できて、楽しめるんですよね。
しかしトシをとるにしたがって、だんだん感受性は落ちていきます。
この世に存在するあらゆるものごとには必ず「たのしい面」と「いやな面」がある。
しかしトシとると「いやな面」だけに対しての感受性だけ保持して、「たのしい面」に対する感受性は捨てていくんですね。
なぜか。
マジなはなし、ほんとうにニブくなっていってるんだと思います。
神経が、バカになっていってるんですね。
生命維持にとって「たのしい面」と「いやな面」では、どっちのほうが重要か。
そりゃあもちろん「いやな面」なんですよね。
いやな面は、生命を脅かす危険性を孕んでいるからです。
だからそっちのほうに対しての敏感さだけは、トシとっても消えにくい。
でも感受性は、神経の敏感さは、全体としてはどんどん落ちてる。
生命維持に必要な危機管理のための感受性、「いやな面への集中力」は残したまま。
アタマではわかっていても、切り替えられない。
これこそが、ニブってきていることの証左なんですよね。神経がスっと動いてくれんのですわ。
なのについつい「私ってば繊細なのだわ。ビンカンなのだわ。感受性が強いのだわ。」とか思ってしまうんですね。
なにゆうとるねんな。
逆、逆。
ニブっとるねん! 全体的に鈍感になっとるねんっ!
ただの自己弁護じゃ。
ほんとうに繊細でビンカンで感受性が強いのなら「この世の楽しいこと」にも、もっとビンカンじゃないと、おかしい。
感受性を落として、鈍感になる方法。
それはふたつある。
まずは「疲労」が、いちばんの近道だと思うんです。
疲労して、生命力が低下すると、当然神経は「防御系」に移行するはずです。
肉体疲労にせよ、精神疲労にせよ、疲れたら神経は守りに入る。
「危険なこと」「いやなこと」の発見だけにほぼ全力を行使するようになり、優先順位が比較的低い「いいこと」の発見には、パワーが回らなくなるんですね。
もうひとつは「怠惰」だと思います。
いやなこと、つらいことから逃げてばっかり。
そういうことをしていると、カラダもココロも、パワーがどんどん落ちていく。
感受性が高くあるためには体力と精神力が強くないといけないんだと思うんですね。
生命力が強くないといけない。
体力はないわ、ココロも弱いわだと「危機管理用の感受性だけ」強くなってしまう。
で、うすぐらい方面にだけ注意が向いて、この世は腐ってるとかいいだして、いろんなことから逃げようとしていく。
感受性を高める方法。
それは結局、しごくあたりまえの、
・ちゃんと休む。
・ちゃんと食う。
・ちゃんと寝る。
・ちゃんと泄す。
・しっかり動く。
ということになるんでしょうね。
で、これはぜんぶ、感受性が高い「子どもたち」が毎日やっていることです。
オッサンだから、オバハンだから、なんだ。
同じ人間なんですもの、やっぱりちゃんと休んで食って寝て泄して動かないと、感受性は下がっていきますよね。
むしろ、子どもたちよりももっとそういうことを大事にしなくちゃいけないかもしれません。
ただでさえ、神経ニブってきてんだから。
だから日本にも「シエスタ」の習慣を導入したほうがいいんじゃないのかな、と思ったりします。
午後1時から2時くらいは、おひるねの時間。
おひるねは、こどもたちだけの特権じゃないです。
むしろ更年期を迎え生命力が落ちてきた、オッサン・オバハンたちにこそ、必要な習慣だと思う。
オトナの責任を果たしたいのなら、真の意味で感受性を高めないといけませんよね。
オッサン・オバハンは、この世のリーダーなんだ。
若くもない、年寄りでもない、その中間にいるからこそ、できることも多い。
疲労して感受性が落ちて、悪い面しか見られないオッサン・オバハンたちがいっぱいいたたら、この世は真っ暗闇だぜ。
オッサン・オバハンがみんな面白いこと、楽しいことに敏感なら、もっと世界は面白くなりますよね。
「あんたは 物事の暗い面ばかり 見過ぎるんだよ」みたいな
うかんでたのです 今朝。
もう 何十年も前に 読んだきり…
村上春樹 『羊をめぐる冒険』 鼠 という登場人物の
言葉 だったように おもうのですけれど。
記憶違い だったら。ごめんなさい。
わたし。
そう なんだよなあ って。˘ ˘ゝ
よい 面 ところ も ある よ ね… みたい な。
角度 変えれば とか かな …
すこし でも。
かろやか に
いたいかなあ なんて
ちょうど いましがた というか
つい さっき
おもった ところ でしたので。
この記事を 読んで おおっ と。˘ ω ˘*ゝ
「悪い面ばかり見てしまう」っていうのは、性格とかじゃないんでしょうね。
だってそういうことは生きていく上で必要なことだし、とっても大事なことですから。
「必要なことしかできない状態」になってる、っていうことなんでしょうね。
だから無理して明るい面を見るよりも、元気になって感受性を高めていくことのほうが、近道なんだと思いました。
そのためにはまず、うまいもん食ってよく寝ることでしょうね。
元気になったら、本来優先順位が低い「いい面」も、勝手に見えてくるようになると思います。