ぼくは、何でできているのだろう。
この不可解な問について、案外かんたんな答えがありました。
僕の半分は、柔道でできていた。
どうして、ヨガよりも坐禅のほうに強いシンパシーを感じるのだろう。
どうして、只管打坐ということばに、強いシンパシーを感じるのだろう。
どうして、坐禅が大切だと言っていることについて、なんの違和感もなく受け入れられるのだろう。
前世がお坊さんだったから?
いやいや、そんなことではないです。
かんたんなことだった。
「柔道で言っていることと、基本的に一緒」
だったからです。
ぼくは中学生から大学卒業まで、体育会の柔道部に所属していました。
修行期間は10年と長いけど特別に強かったわけでもなく、これといったタイトルもなく、結局は二段どまりだから実力的には「ふつう」です。
自律神経を壊してからはヨガを習いに行きましたけど、期間は四年間でした。
けっこうまじめにやりましたが、じつは柔道ほどまじめにはしていません。
いちおう毎日していましたが、柔道の練習ほど集中してやったわけではありませんでした。
「なにかを一生懸命、長期間やったこと」
これがその人の大きな「成分」になることは、まちがいないでしょう。
だからぼくの成分は、ヨガよりも柔道のほうが圧倒的に大きいと思う。
50歳を目前に控え、また最近は真剣に坐禅をするようになって、じつは柔道には人生で大切なことが全部含まれていた、ということに、今更ながら気がつきました。
人生で大切なことは、ネット上にも、ヨガにも、本にもなかったけど、柔道にあった。
・礼儀ただしく。
・掃除せよ。
・道具を大切に扱え。
・道場(場)と師匠(先生、先輩)、同士に敬意を持て。
・敵を敬え。
・けじめを大事にせよ。
・自分に負けるな。
・勝つこと(目標)にこだわるな。
・よく黙想せよ。
・集中せよ。
・自然体。
・じぶんの力だけでなく、相手の力こそうまく使え。
・「機」を逃すな。
・間合いを重視せよ。
・姿勢をただしく。
・呼吸を重視せよ。呼吸を読め。
・不動心を養うべし。
・神仏を敬え、しかし頼るな。
・修行に終わりも、完成もなし。
・柔よく剛を制す。
・自他共栄。
・精力善用。
ほとんど「禅」が言うことと、同じなんですよね・・・・・・。
そりゃあ、なんの違和感もなく受けいれられるわなあ。
すんなりと、そうですね、と思えるわなあ。
やってて、苦痛ないわなあ。
おかしいなあ、とは思ってたんです。
なんだかずいぶん前から、禅には接していたような気がして。
接したことなんかないのに。
日本の武道や茶道華道日舞などの芸事は、禅にその思想の多くを負っているそうです。
だから禅が言っていることと似通ってくるのは、理の当然ともいえますね。
改めて柔道が言っていることを眺めてみると、とっても大切なことばかりだな、と思いました。
なにもスピリチュアル的なことに傾注するまでもなく、自己啓発のセミナーに行くまでもなく、あれやこれやと読書をするまでもなく、仏典や聖書などを読み漁るまでもなく、哲学にのめりこむまでもなく、宗教団体を訪れるまでもなく、ここに全部「こたえ」があった。
これをきちんとやっていれば、あるいはやろうとしていれば、かなり多くのことがうまく回るかもしれません。
よくよく確認すれば、全然できていないことも多いのです。
ついついテクニックに走ろうとしたり、方法論ばかりに執着してしまったり、相手の利益を無視してしまったり、ひとりよがりになってしまったり、目標達成ばかりにこだわってしまったり、掃除をしなかったり、モノを乱雑に扱ってしまったり。
一貫してあるのは、「敬意」なんですよね。
ヒトに対しても、モノに対しても、場に対しても、神仏に対しても、敬意をわすれるな。
掃除にしたって、べつに清潔とか疫学とかいう視点じゃなく、家や道場に対する「敬意」。
いつも使わせていただいてありがとうございます。
いつも私達を守っていただいてありがとうございます。
修行させていただいてありがとうございます。
この感謝の念が、「掃除」という行動になる。
アレルギーがどう、運気がどう、エネルギーがどう、そんな「しょぼい」理由じゃない。
ただただ「感謝」する姿勢。
ただただ「敬意」をあらわす姿勢。
それが、掃除。
人生でいちばん大切なことは、もしかしたら「敬意」なのかもしれません。
すべての人に、敵にさえも、敬意を。
すべての生き物に、敬意を。
モノにさえも、敬意を。
うやまうこころ、これを失ったとき、こころがレールから外れて、おかしな方向に行ってしまうことは多いです。
禅についてもそれを仏教哲学や思想的側面から解釈をするよりも「敬意」という側面から見てみれば、納得が行くことが多いです。
堅苦しいとか形式主義とかではなくて「敬意」をあらわした行動が、禅という様式なのかもしれません。
日本人の良いところを、きれい好きだとか、やさしいとか、規律正しいとか、勤勉だとかいうけれど、その中心にあるのは「敬意」なのかもしれないです。
サッカーの試合のあと、日本人の観客が客席を掃除していくことに、世界のひとたちはひどく感激をするそうです。
これはなにも清潔好きだからとか、まじめだからなのではなくて、まさに「敬意」と「感謝」のあらわれなのですよね。
勝敗に関係なく、その「場」に、そして戦った敵にさえも、敬意と感謝を。
このまるで王族のような凛とした姿勢に、外国の方は感動するのだと思います。
うやまう、という気持ちは、まさに「人間ならでは」ですよね。
「ごほうび」があるからやります、というのは、イヌでもネズミでもサルでもできます。
報酬系のドーパミンを主軸にした行動は、けだものの行動ともいえます。
でも純粋な敬意や感謝で動けるのは、たぶん人間だけでしょう。
この人間ならではの、もっとも人間らしい部分を、もっともっと高めていこう。
それが禅であり、武道であるのかもしれません。
脚下照顧、大事なことはほんとうに、いちばん身近なところにありました。