一期一会の価値は

もうオッサンであることであるし、今日はお日柄もよろしいので、おっさんらしいことを書こうと思うのであります。

 

久々に「東京ラブストーリー」を観た。

いわゆる「月9」と言われるドラマの傑作といわれております。

で、泣いちった。

泣いちったのボク。

じつはストーリー云々ではなくて、「なつかしー!!」のほうなんですけどね。

ノスタルジックなアレでグっときたわけで、だからつまり、おっさんらしいでしょうが。

 

ケータイなんかなかったんですよね。

メールもラインもメッセンジャーもなかった。

家族や友人、恋人などと連絡をとるばあいは、直接会うか電話ぐらいしか手段がなかった。

外出先から誰かに連絡をとるばあいは、公衆電話一択でした。

そして電話をかけたところで、必ず話せるとも限りませんでした。

不在なんてあたりまえ、だから当時の電話機には留守電機能がとても充実していたりしました。

考えてみれば、あんな不自由なコミュニケーションツールしかなかったのに、よくもまあ「待ち合わせ」なんてできたものだなあと、我ながら驚きを禁じえません。

マジで、どうやってたんだっけ。

待ち合わせに相手が来ない、そんな場合は、もうどうしようもないです。

家に電話したって移動中ならいるわけがないから、待つしかない。

あのやろう遅刻しやがってバッキャローめ、などとココロの中で罵りながらも、まてよ、そもそも時間は合っていただろうか、場所は合っていただろうか、ていうか、今日だったっけ? と、じぶんの間違いの可能性に思いが至ってそっちの不安まで出てきてしまう。

しまいには、ほんとうに「あいつ」だったろうか、もしかしてちがう相手との待ち合わせだったろうか、いやまてよ、もしくはほんとうは「おれ」がここに来るのではなかったのではないか、などとあらぬ方向へ思考が飛ぶこともあり(ないか)、とにかく不安。

まてよ、あいつ、事故したとかじゃないだろうな。

そんな不吉な不安も、ふとよぎる。

遅刻している相手への怒り、自身の記憶への不安、相手の無事への懐疑などがないまぜになって、まるでクマのようにそのへんをウロウロする。

ああ、ああ、もう、どうしたらいーんだーっ!

 

そしてとうとう待ち合わせの相手が姿をあらわしたときには遅刻への怒りなど消えてしまって

「生きとったんか、ワレー!」

生き別れた戦友に再開したかがごとく、嗚咽しつつ思わず抱きついてしまう、ということもあった。

うそ。

ないけどね。

でもまあかなり不安だったというのはほんとうだし、事故などの大事でなくてホっとしたというのもほんとうです。

だれかと「会う」ということ、「話す」ということ、「同じ時間を過ごす」ということの希少性を多少なりとも感じていたのは確かです。

会えないからこそ、いま会いたいと思う。

伝えられないからこそ、いま伝えたいと思う。

 

 

あの日、あのとき、あの場所で君に会えなかったら、

ぼくらはいつまでも、

見知らぬふたりのまま。

 

スマホがいくら普及しても、このことじたいはもちろん変わりません。

でもその「価値」は、どうだろうか。

連絡がつきやすくなればなるほど「会いたい」も減っていくのではないか。

スマホどころか電話さえろくになかったころ、それはつまりぼくの両親が若いころだけれども、そのときは「手紙」しかなかった。

 

スマホ時代と、手紙時代。

この両者の時代において「一期一会の価値」はいったい、どうだろう。

一期一会、このことも、いくら通信が発達しても同じです。

でもそれを「感じるひと」のこころが、ちがう。

 

便利になればなるほど「つのる想い」が、減っていくのですよね。

感動も、減っていく。

 

これはいいことなのか、わるいことなのか。

まあたぶん、両方なんでしょうけれども。

でもぼくは、あの「足りない」が、懐かしいのです。

足りないからこそ、得たときの感動も強い。

情熱が、もえあがる。

 

いつでも得られる環境にいて到達した「足るを知る」と、得たくても得られない状態で到達した「足るを知る」は、まったく意味がちがうことになると思うのです。

足りない。足りない。それでも、足るを知る。

そんな境地。

断捨離も同じだとおもう。

モノにあふれた世界で行う断捨離と、モノの足りない世界で行う断捨離は、きっとなにもかもがちがう。

到達する境地もちがうはすである。

最近の若いひとたちは、ぼくからするととても仏教的であると感じます。

ある種悟っているような感じもある。

執着すくなく、こだわりすくなく、欲もすくなく、柔軟で、自在である。

うらやましい限りです。

でも、ふと思う。

それは「足りているからそうなった」のではないか、と。

「足りないけどそうなった」のとは、またちがうのではないか。

もし彼らが「決定的に足りない」状態になったとき、おなじような心境でいられるだろうか。

 

ね?

オッサンらしいでしょうが。

でもまあ「昔は良かった」ということが言いたいのではありませんし、今がわるいと言いたいのでもありません。

昔には昔の、今には今の良いところがあり、わるいところがある。それだけ。

 

ただ、思っています。

「足りなくしていこう」

むやみにネットで情報を集めることは、よしておこう。

それをすると、バイタリティが消えていく。

いのちのちからが、へっていく。

 

足りないところにこそ、光といのちはあつまる。

あふれているところには、闇と死があつまる。

いくら時代がかわっても、こればっかりはほんとうなのですよね。

「足りない」は、ちからである。

 

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