ぼくはまたコーフンしているのであります。
最近「空海の風景」という司馬遼太郎の本を読んでいます。
それを読んでいて、コーフンした。
本は、空海の足跡を司馬遼太郎さんの卓越した想像力でもって辿るというもので、ご本人も書いているけど、あくまで小説なのであって学術書ではないとしています。
しかしかといってたんなる妄想の羅列ではなく史実などおそらくは事実であろうと思われることをベースとして、そのうえでの推測をもって空海の風景を構築してみるというものです。
なので荒唐無稽なファンタジーではなく、ぼくとしては「準学術書」のように思えました。
やっぱり小説家ってすごいな、と思いました。
とにかく知識量が半端ないです。博覧強記、といってもいいような気がする。
このあたりが、想像力と妄想力だけを頼りに展開されるラノベなどの「文芸」と一線を画していると思いました。
まさに「小さな説」であります。
さておきコーフンしたのは、この本に出てくる仏教や密教に関する話を、まったく客観的に記述しているところでした。
仏教や密教の話を本で読むとすると、どうしてもお坊さんや学者さんなど、その道の専門家の本になる。
専門家ということは、その分野での深い洞察があるいっぽうで、視野が狭いということもいえます。
それを信じているがゆえに、あるいはその分野を長年研究してきたがゆえに、隣接するメタ情報を無視している場合も多い。
いわゆる「学際的」ということが弱くなる傾向があるかもしれないです。
その点「空海の風景」は馬遼太郎さんの広範な知識と連合しているようで、まったくちがう視点から仏教を観察しているところがすばらしいです。
「仏教とは認識の抽象化である」
空海の風景にはそう読み取れるところがあって、そしてそのことは、ぼくがどうも引っかかっていた部分を一部溶解させてくれるのでありました。
また禅などが言っていることを、ものすごく簡潔に言い当てているとも思ったのです。
仏教関係の本を読んでいるとどうしても罠に引っかかるのです。
この罠は仏教が仕掛けたものではなく、自分自身が持っている罠です。
「抽象力不足」。
物事への認識を抽象化することがヘタクソ、あるいは慣れていないと、書かれている事実をそのままに受け取ってしまうか、「私なりの解釈」で満足してしまうことが多い。
そのことがドグマを生んで、欲や煩悩ということを字義通りに解釈したり、曲解したり、独自解釈をしたりして、かえって自己を拘束していくことになる。
禅は中国と日本で発達しましたが、おそらくはこの「抽象化」ということを苦手とする漢民族や日本民族の弱点があるために「不立文字」という発想が出来上がったのでは、と思いました。
日本も儒教の影響を受けているために、事実を事実のまま認識するという特性がそのまま残っています。
年功序列や親孝行、礼儀などはまさに、「社会の摂理」を重視していて、そこに抽象化という行為はあまり見られないのです。
太古のアーリア系文明圏では、「抽象化」のほうがノーマルだったようなのです。
つまり、中国人や日本人とは、まったく違う認識のしかたをしていた可能性が高い。
「孔雀は平気で毒虫を食う」
この一文は、日本人であるぼくには、とくに違和感はありません。そうですか、てなもんです。
しかしサンスクリット語では、このような記述の仕方はしないというのです。
「孔雀はその解毒性によって毒虫を食う」
と記述する。
ぼくからすると、なんなん? その理屈っぽい言い回し! と思う。
しかしこれを理屈っぽいと感じることこそが抽象化ということを苦手としている証拠なのでしょう。
現象の「表面的な現象」のみを抽出し、それをもって「事実」としてしまうのです。
いっぽうサンスクリットでは現象の「機能」までを含めてはじめて「事実」とする。
深い、という言い方もできますが、おそらくこれはそういうことだけではないと思います。
「世界の認識のしかた」の違いなんだと思います。
物事の表面ではなく、そのストラクチャのほうを主に見ている。
仏教というものを、このアーリア人独特の卓越した抽象化思考という側面から考えたとき、見えるような気がすることも多いのです。
禅も、密教も、顕教も、つまりは仏教がいうことは結局この「抽象認識」を「もと」として発展してきたのかもしれないです。
お釈迦様も、アーリア人でした。
この世界は「かりそめ」であり、その本質は空(くう)である。
これは仏教の共通定義ともいえますが、これをぼくたちは難解である、と考えます。
しかしこれが「抽象化」という認識方法によって得られた認識であると見たばあい、どうか。
難解どころか、むしろそうなって当然という気もするのです。
孔雀が毒虫を食ったのではなく、孔雀はその解毒性によって毒虫を食った。
この方式とおなじように「人間」という存在を認識したとき、その本質は「空」となるのではないか。
生まれて死んで食い性交し排泄し眠り働くという「おもてのうごき」ではなく、その「機能」の部分に注目をしたとき、実存しているものはなにもない、というような。
あるいは抽象認識を主として「いのち」というものを認識したとき、そこでは、どのような解釈がなされるであろうか。
抽象認識によって得られた定義を、具象認識の立場だけから理解しようとすると、そこに「無意味」であるとか「さみしい」といったような心象を得て、それを本体と結合させてしまうことがある。
そしてその主観にしか過ぎない自身のこころの動きをもって、仏教の考え方を定義してしまいかねない。
これでは、理解したとはいえないのではないか。
日本の仏教が本質的な部分で停滞してしまったのは、案外こんなところにあるのではないか。
座禅はこの「抽象力強化トレーニング」という見方もできるかもしれません。
座禅を続けていくと脳の海馬という部分が異様に発達してくるそうで、これは客観性を非常に高めると言われています。もしかすると海馬には、認識した物事を抽象化する機能があるのかもしれません。
抽象化が極端に強くなれば物事の顛末のいちいちではなく、その機能のほうを主に見るようになり、そうすれば結果的にああだったこうだったと悩むことが少なくなるのかもしれません。
禅というのは、いわば自分自身さえも抽象認識でもって捉えよと提案する流儀とも見えます。
というようなことを、思いました。
まあ今考えたことが合ってる間違ってるはとくにどうでもよくて、それよりも思ったのはやっぱり
「小説家ってすげえな」
っていうことです。
「竜馬が行く」のような歴史小説を書くいっぽうで、仏教や密教、その成立の背景まで、広範な知識をお持ちなのです。
これが「文芸家」と完全に隔絶された「小説家」という孤高点なのかも、と思いました。
やっぱり、すごいひとは、すごいですね。