「ゆるす」というのはもしかすると、完全に独立した機能なのではないか?
と、フト思ったのであります。
外出恐怖などの恐怖症・神経症や、各種神経的な問題は「ゆるせない」という心の状態が深く関係していると思います。
神経症などになる人にはとても真面目で神経質なひとが多いといいます。
この真面目や神経質ということを、性格という妄想じみた部分から入るのではなく、その「機能」として考えてみる。
そうすると、真面目や神経質というのは結局「ゆるさないこころ」の表現のひとつなのでありますね。
いい加減であることやテキトーであること、不規則であること、不潔であること、ルールに合致していないこと、じぶんの意図や価値観に合致しないことを「ゆるせない」。
これを「ゆるす」ことができたなら、もう真面目や神経質ということにはならないのです。
パニック障害から外出恐怖に至ることもまた「ゆるせない」気持ちによって起きている。
予期不安というものじたいが「ゆるせないこころ」なのですよね。
パニック発作が起きることを、ゆるせていないのです。
これを未然に防ごうとし、発作の可能性を排除していこうとする。
そうすると、外出という「最も発作が起きると都合がわるい条件」に対して、過剰に防衛しようとする。
この過剰な防衛機能こそが「恐怖」であります。
そもそも、こころのなかに「ゆるせない」がある。
もちろんこれは誰しもあることで、それが異常ということではない。
パニック発作のようなあんな強烈に不愉快なことがあれば、これをサクっと許せるなんて、知能があればこそ、そうそうできることではありません。
すこしだけ過剰である、という程度なのだと思う。
真面目であるとか、神経質であるとか、プライドが高いとか、正義感が強いとか、柔軟性に欠けるとか、人目を気にしてしまうとか、そんな特性は、だれにでもある。
まったくないほうが、ちょっとおかしいのである。
しかしこの特性に「ゆるせない」というこころの状態が追加されたとき、それらの特性にターボがかかってしまうことがある。
これが、病的な状態なのではないか。
「ゆるす」には、罠がある。
ゆるす、ということばには魅力があって、そうだな、ゆるそう、ゆるす努力をしてみよう、と人をして思わしめるのであります。
しかし罠は、目前にある。
だれかをゆるそう、そうは思ったものの、そうそう許せないのであります。
じぶんをゆるそう、そうは思ったものの、そうそう許せないのであります。
なぜならば、これは思考のクセだからでありますね。
ゆるそうと思って、すぐにゆるすことができたのなら、それはそもそもゆるしていたことなのです。
ゆるせないことを、ゆるすのは、たいへんに難しい。
この困難に直面したとき、「ゆるせない」が多いひとは、こう思う。
「ゆるせない自分が、ゆるせない」。
これこそが、罠である。
そう、つまり結局、なーんにも許せてないのであります。
これはおそらく、根源的な部分に関与しているかもしれない。
表面的な意識や口先でゆるすゆるすと思ったり言ったりしていても、それが「できない」ときに「ゆるせない」という感情が芽生える。
まさに、堂々めぐりであります。
だから思ったのです。
「ゆるす」というこころの状態は、あらゆる感情の外側にあるものなのではないか。
まったく独立した機能なのかもしれない。
ゆるせないじぶんを、ゆるす。
これができたとき「ゆるす」は、はじめて完成に近づくのであります。
文字でかくと、かんたんです。
ゆるせないじぶんを、ゆるす。
これはなんだか、とってもハートウォーミングな雰囲気さえあります。
文字を見るだけでも、すこしほっとする。
さて、では、できるだろうか。
そうそう簡単にはできないのでありますね。
もしこれが完全にできたら、そのひとはもう聖人なのかもしれません。
できるときもあるが、できないときもある。
それが、ふつうです。
そこで、ゆるせないじぶんをゆるせないことを、ゆるす。
という、もう一つ上位階層に移動する必要がでてくる。
そしてそれができないとなると、またしても、ゆるせないじぶんをゆるせないことをゆるすことができないことをゆるす、という、まるで寿限無のようなことになっていく。
たまねぎである。
「ゆるせない」を「ゆるす」で、たまねぎのように何十にもラッピングしていくことになる。
ちがうよねえ。
なんじゃそら。なにやっとるねん。
だからこそ「独立機能」なのでは、と思ったのです。
そうじゃなくて、ゆるす、はやっぱり、ゆるす、なのだ。
ゆるす。
このかんたんな言葉は、じつはある種の「こころの特異点」を指しているのかもしれません。
あらゆる感情から画別された機能で、あらゆる感情を中和し無効化してしまう特殊機能。
この特異点に至ることが「修行」なのかもしれませんね。
「ゆるしたフリをする」や「ゆるす行動をする」のではなく、本心が「ゆるす」の一点に至る。
それはおそらくじぶんに害をなした相手やものごとを無罪放免にするということではなく、こころの状態が特異点に至るということなのかもしれないですね。
そしてこの特異点は、だれにでもあるし、じつはしょっちゅう使ってもいる。
しかしある特定の事象にこころが強力にロックされたとき、この特異点は消失する。
ひとも、じぶんも、ゆるせなくなる。
これが「病的」の状態なのかもしれません。
ほんとうの「ゆるす特異点」に至るためには、一生かかるかもしれない。
でも、それをすこしでも見つけようとすることは、きっと無駄ではないと思うのです。
りっぱなじぶんも、だめな自分も、ともにゆるす。
これを日々筋トレのように続けていけば、その特異点は少しづつ近づいてくるかもしれない。
不正はゆるさない、とかではなくて、不正はただす、だけで良いのであるよね。
そのためにルールや法律があるのだから。
なにもいちいち「ゆるさないこころ」を発動させるまでもない。怒る必要なんかない。
ゆるさないこころは、対象を著しく傷つけるだけでなく、自分自身も傷つけている。
一種の毒だな。
でも、ついそうなってしまうじぶんも、ゆるす。
これができたとき「ゆるす」はすこし、完成に近づくのかもしれませんね。
ええやんけ。
なんでも許したれ。
暑いのも寒いのも、痛いのも怖いのも、汚いのも歪んでるのも、わるいのも馬鹿なのも怒りっぽいのも、許したれや。
よかよか。そういうもんである。