初心に帰ろう、と思いました。
ぼくはなにか勘違いをしていたようで、努力をすれば成長して、よい結果が得られると考えていました。
しかしこれはあくまで単純化したスキーマというか、形而上の概念にすぎなくて、実際にはその努力→結果のなかにも、無数の努力→結果が詰まってる。
どんどん細分化して、これ以上切り刻めないところまでいくと「いつだってスタートライン」ということになる。
スタートがあって、ゴールがある。
確かにそうなんだけど、これは結果論にすぎないのかもしれませんね。
生きているのはいまこの瞬間だけなので、ということはつまり、どの瞬間もスタートラインということになる。
なのに、なぜか、「栄光のゴール」のようなものを夢想してしまうのでした。
まあ、それも良いのだと思います。
スタートがあってゴールがあるということも、間違ってはいない。
またどの瞬間もスタートラインだということも、間違ってはいない。
どっちゃでもOKなんである。
それよりもぼくがいま気にしている命題は「なぜ仏教や密教、宗教に強い関心を抱くようになったか」ということです。
それはかんたんです。
パニック障害というナゾの病気にかかったからです。
なにをどうしても治らなくて、だからこそいろいろと悩み、そのうち精神世界のようなことにも興味を抱くようになった。
ということは、もしパニック障害などにならなければ、そんなに深い関心を抱くことはなかったのでは、と想像するのです。
結局は悩みや不安があるからこそ、精神世界のイデオロギーに関心が向かう。
ということは悩みや不安から切り離されれば、もうそのようなイデオロギーには関心がなくなる、ということなのかもしれません。
もし悩みや不安がなくなっても、それでもそちらへの関係を持ち続けるときは、それは「だれかを助けてあげたい」という気持を持ったときかもしれません。
人をたすける方法には、実業的な方法と、精神的な方法があります。
そのどちらもが、だいじなことです。
おそらくはお坊さんや神父さんなどには、そのようなお役目があるのだと思います。
子供の頃から、宗教的なことへの関心はありました。
でもその関心の矛先は、イデオロギーや教義的なことではありませんでした。
その芸術的側面に関心があったのです。
もっといえば、その芸術がもたらす感動に、関心があった。
胎蔵界曼荼羅や金剛界曼荼羅、各種伽藍、神社や教会などをみると、異様なほどの感動をおぼえる。
この感動は、いったいなんなのか。
どうしてこのようなものを、人間が作れるのか。
そういうところに、最も大きな関心がありました。
初心に帰ろうと思うのです。
イデオロギーに執着してしまえば「すべての執着を離れよ」という仏教の哲学に矛盾します。
仏教ということに執着することは、そのことじたいが、もう矛盾をしてしまいます。
ぼくはたしかに、パニック障害によって仏教などのイデオロギーに関心を持った。
そしてそのイデオロギーによって、いくばくかのココロの安らぎを覚えたとして、それでそこに立ち止まってしまったら、ぼくはもうひとつ余計に足かせを得たことになる。
これは、いったい、なにがしたいのか。
ぼくはつまり、自由がほしいのであります。
とくに自分自身がつくった牢獄から、脱出したいのであります。
これに仏教は有効だと思いましたが、仏教そのものに拘束されたら、本道がらズレてしまう。
自分自身がつくった牢獄のメイン素材は「ゆるせない」だと思うのです。
ゆるす、ということが、どうもスムーズにいかないのです。
このことは、どこかに執着しているから起こる。
正義やプライドというのも、結局はこれだ。
そういうことに固着してしまうこともまた、不自由のひとつかもしれないなと思うのです。
そこへイデオロギーなどを追加してしまったら、もはや、がんじがらめであります。
いったい、なにがしたいのか。
あえて仏教的にいうならば、ぼくは阿弥陀様に救ってほしい、ということだけではありません。
阿弥陀様自身にも、なりたいのであります。
悪人さえもゆるし救うという、そんな極限の原理と合一化したい。
どのようなことも「ゆるす」という広大無辺無限の原理によって、すべてを飲み込みたいのであります。
だからこそ、密教ということに関心が強いのかもしれません。
そして、思ったのです。
「ゆるす」という高等原理は、なにも仏教でなければ得られないような代物でもないのですよね。
というか宗教でなくても十分に得られる可能性があります。
仕事であろうが、趣味であろうが、どのようなことででも得られる。
そうしようと思わなければ得られないが、そうしようと思えば、すこしぐらいは得られる。
印をむすび真言をとなえ、滝に打たれ、あるいは唱題し、念仏し、座禅を組んだところで、「おおいなるゆるし」を自分自身のこころに得られるとは限らないです。
むしろその部分が欠落していたら、いのちがけの修行をしたっていっさい得ることはできない。
だったらば、そんなことはべつに、しなくてもいいのではないか。
それよりももっとダイレクトに「ゆるす練習」を積み重ねていくほうが、合理的なのではないか。
初心にかえろうと思うのです。
「自由」になろう。じぶん自身から。
本ばかり読んでいたら、これをつい、忘れちまうんですよね。
自由になるためには、不自由の原因を知らねばならりません。
そしてその原因は人それぞれだから、絶対に本やネットには書かれていない。
じぶんのこころに、書いてある。
読め。
わたし自身を。
正解を求めると、「これが正解だ」と思ったときゴールに至ったと思いこむ。
すると、もうスタートが切れなくなる。
でもじっさいには、毎時毎分毎秒がスタートラインである。
ゴールだと思ったことは、ただのかんちがいなのである。
だから、進み続けようと思うのです。
変化しつづけようと思うのです。