春は、毒出しの季節。
春先にどうも具合がわるくなって、パニック発作が出がちになるという人は、結構多いようです。
毒をデトックスしているということだから、必ずしも悪いことではないという考え方もありますね。
というかそもそも、パニック発作じたいが、なにかのデトックスをしているのではないかと感じることもあります。
こころのなかに溜まっている、怒りとか、ストレスとか。
閾値を超えたときや、押さえつけているフタが緩んだ時にどばぁ〜〜〜っと出る。みたいな。
出物腫れ物、所嫌わず。
パニック発作なんてのは、あるいみ「屁」みたいなものなのかもしれませんね。
屁と発作はよく似ていて、いつ、どこで出るか(出そうになるか)、わかったものではありません。
明確な予告も、とくにありません。
極限までくると、我慢できない。止められない。
また屁も、気がゆるんだ時に、出るのですね。集中して、気が張っているときには、意外と出ない。
大事な場面で出てしまったらそこそこ大変だというのも、よく似ています。
屁なんてものは、存在しなくても良いように思いがちだけど、じつはとっても大事。
パニックも、案外そうだったりして。
パニックは「心の屁」だったりして。
こういう病気を抱えていると、理不尽で腹が立つこともあります。
とくに何も悪いことなんかしていないのに、どうして俺だけが、こんなことになるのか。
世の中には、いい加減で、てきとうで、めちゃくちゃな奴がいるのに、そんなやつは、意外と精神的に健康だ。
どうしてだ! 理不尽じゃないか!
とまあ、ついついガキっぽい愚痴も出てしまうというものです。
しかし冷静になって、よくよく考えてみたら、べつに理不尽でもなんでもないのかな、と思うこともあります。
「なにも悪いことをしていないのに」
この「悪い」とは、なんなのか?
真面目な人、向上心の強い人に限って、こんなことをよく思ってしまうのです。
おれは何も悪いことをしていないのに、どうしてこうなるんだ。
おそらく、この「悪い」という定義を、別次元から持ってきているのでしょうね。
犯罪なんか、もちろん犯していない。
一般的に健康に悪いといわれていることは、あまりしていない。
約束や時間は守るし、人を傷つけるようなこともしていない。
仕事もきちんとしている。
自分自身を高める努力も、ある程度はしている。
わがままだって、あまり言わない。
ひとに迷惑をかけるようなことは、極力していない。
こういった「社会的・医学的」なことについて「悪い」ことはしていない、と、そう考えるのですね。
まああたりまえだけれども、そんなもん、関係ないわなあ。
「人に迷惑をかけなければ」→「病気をしない」
そんなことは、絶対にないのですね。 あるわけがない。
だってこれは「別次元どうしの話」だからです。
日本で鉛筆を折ったらインドで橋が落ちた、というぐらい、むちゃくちゃで、無関係なはなし。
それなのに、思う。
「どうして、俺が、わたしが、こんな目に」
あたりまえだ。
それは「報い」なのですもの。
真面目すぎることへの報い。
努力家であることへの報い。
辛抱ばかりしてきたことへの報い。
やりたいことよりも、義務のほうを重視してきたことへの報い。
いやなことを無理してやってきたことへの報い。
社会的立場を守ろうとして、自分にウソをつきつづけてきたことへの報い。
疲れを取る努力をしてこなかったことへの報い。
のんびりすることを、大切にしてこなかったことへの報い。
わがままを言うことから、逃げてきたことへの報い。
恥を晒すことを、拒否してきたことへの報い。
なにごとも人に頼らずに、自力でなんとかしてきたことへの報い。
ほんとうのじぶんを、殺してきたことへの報い。
基本的には、お前がわるい。
きっほっんってっきっにはっ♪ おまえがわっるっいっ♪
いい加減で、能天気で、責任感のない、不埒なやろうどもが「精神的に健康」な理由。それは、
いい加減で、能天気で、責任感のない、不埒なことは、正しいことだからだ。
真面目、正義感、正確、善良、努力家、忍耐力。
それらは「絶対的に正しい」のではなく、「正しいところもある」「場合によっては正しい」ということに過ぎないのですよね。
ということはつまり「悪い成分も含んでいる」。
もちろん、いい加減で、能天気で、責任感のない、不埒なことには「悪い成分」がたくさん含まれています。
だからそんなことばかり続けていたら、いずれその悪い部分の報いを受ける。
真面目、正義感、正確、善良、努力家、忍耐力には、当然すばらしく良い成分がある。
その成分の報いは、すでに受けたし、今後も受けつづけるだろう。
良い成分の報いを受けたのなら、悪い成分の報いもまた、同時に受けなければならない。
報いなんだよな。
だからだれも、責められない。
わざとそうしてきたわけでもなく、性格のようなことだから、じぶん自身も、責められない。
ただ、報いである。
だからもう、ああしよう、こうしようと考えるのは、無駄だということですね。
そういう性格なのだから、しかたがないところもあります。
ただぼくは、気がついた。
「ぼくは真面目で神経質で、これはぼくの性格なのだ」
これはあまり、ただしくはなかった。
そうじゃなくて、ほんとうのほんとうは、
ぼくには、真面目で神経質なところがある。それが表に出ているだけだ。
じつは、ぼくには「不真面目なところ」「怠惰なところ」「無責任なところ」「わがままなところ」が、いっぱいある。
もしかしたらむしろ、そっちのほうが大きいかもしれません。
こころの奥の、なぞの領域。
なぞの領域を、「社会性」などというフタで「隠蔽しよう」として、よけいなパワーを使っているのかもしれませんね。
かんたんにいうと、正直じゃないんだ。
「こうあるべき」という意識が邪魔をして、「なぞの領域」を、踏んづけて、しまい込もうとする。
そのうち、それは腐って「毒」になる。
ほんわかしてきたら、フタがゆるむんだな。
そしたらどばあぁああっと、毒が表に出始める。
むかつく、腹が立つ、いらいらする、悪意むき出しになりそうになる、喧嘩を売りそうになる、暴力的になりそうになる。
それを焦って「だめだっ!」と押し戻そうとすると、発作になる。
もう、なにもかもが、コントロールできなくなってしまうんだ。
ゆったりヨガをしたり、瞑想をしたり、半身浴をしたり、あるいは日光浴をしたりすると、かえって具合が悪くなることがあります。
それは「ゆるんだ」からだと、思うんですね。
いつも緊張して、「緊張というパワー」を利用して、「謎の領域」を封印していたからだと思う。
ふっと気が緩んだら、封印が解けてしまうんだな。
つまり……。
パニック発作はデトックスだ。
出るものは、思い切って出してしまったほうが、むしろ良いのかもしれませんね。
抑え込んで閉じ込めておくと、腹の中で毒になるから。
急に緩めるから、一気にたくさん出る。
ふだんからゆるめておけば、いいのかもしれませんね。
ほっとして、安心しよう。