まあまあ、ショックでしたけどね。
やはりこの、神経的な不具合については家族といえども、理解してもらえない。
パニック障害と広場恐怖、自律神経失調症を治そうと、いろんな努力をしてきました。
病院に行っても治してくれないのだから、自分で治すしかありませんもの。
最近は、アーユルヴェーダ的なものも真剣に試してみようと考えています。
ぼくはピッタ-カパ体質という、風と火が非常に強いタイプのようなので、これを食生活の面から検証してみようという意図です。
そこで、「P-Kが摂取すべき食材」と「P-Kが避けるべき食材」を一覧にしてまとめ、それを台所に貼りました。
もちろん、家族にこのとおりにメシをつくってくれとか、そういう意味ではありません。
ぼく自身が調理するときに、すこし意識するためにしたことでした。
その用紙を貼ってそのまま風呂に入るため、脱衣所に入りましたら、失笑が聞こえた。
父がぼくの娘に対して、無言で「あいつはヘンなやつだ」という仕草をしているのでした。
ちゃんと見えなかったけど、「あたまがおかしい」的な仕草をしたんだと思います。
あるいは、あきれかえったような顔をしたのかもしれません。
まあ慣れっこではありますが、案外そういうのは、傷つくものです。
ぼくだって、わかってはいます。
アーユルヴェーダに凝ったところで治るかどうか、それはわかったものではありません。
むしろ、そういうことに凝ることじたいに、問題があるかもしれない。
そこまでわかっているのに、なぜこういうことをするのか?
治したいからです。
神経的な不具合を体験してこなかったひとには、家族といえども、わかってもらえないのです。
それは重々承知だけど、肉親に陰でそういう態度をとられているというのは、わりと傷つくもの。
以前ぼくは親父にかつてないほどにキレてしまったことがありましたが、そのときも無理解による発言でした。
「いくら努力しても、治っていないのなら努力していないのと同じだ」
「いつ治るか、いますぐにここで約束しろ」
そういうことを言われて、キレるべきではないことはわかっていましたが、どうしても苦しくて、キレてしまった。
しかしこういった病気を経験していないヒトには、理解せよというほうが酷なところはあります。
すぐにそう思い直し、怒ってしまったことを直後に謝りました。
表面的には、理解しているような態度をとり、協力的な姿勢を示す。
しかし腹の中では、バカにしている。
そんなことは、社会だろうが、家のなかだろうが、つねに存在しつづけています。
ヒトとヒトとは、いくら仲良く見えても、ほんとうには理解しあえないものなのです。
今回はもう、怒りませんでした。
親父は東北の津波で家々が流されている映像をテレビで見て、「こりゃすごいなあ。アハハハハ」などと笑うタイプのヒトなのです。
当時ぼくは戦慄をおぼえました。
しかし、ある意味、そういう心情だからこそ、心が強いともいえるのです。
心がなければ心なんか傷つかないし、すべてを他人事とする処世術を心得ていれば、じぶんのこころは傷つかないものです。
そういう生き方もあるし、それを悪いとは、ぼくは思いません。
ただぼくには、そういうことはできない。不器用なのです。
ぼくはそっと、台所に貼った食材一覧を取り下げて部屋に戻りました。
よのなかには、いろんな病気で苦しんでいるヒトたちがいます。
お医者さんに行っても治してもらえなかったヒトの多くは、みんないろんなことを試しています。
医学的なものから、マユツバなものまで、とりあえずは試していく。
ぼくを含めこういった不可思議な病になったヒトというのは、そういうカルマを持って生まれてきたのでは、と思うことがあります。
さまざまなことを試しつつ、数ある方法論から正解を見つけ出すためのトレーニングを、天から課されている。
遠目に見れば、そういうヒトもいないと人間は進化できないから。
これは一種の、お役目である。
ぼくは、そう思うことにしています。
だからもし、家族など一番理解して欲しいひとこそにその行動を理解してもらえなかったら、いま自分は正しいことをしていると思おう。
チョコレートを食べたことがない人は、チョコレートの味を想像することはできません。
行動を理解されないということは、一般的な理解を越えた領域のことに挑戦している、ということです。
すべての努力は、正しい。
報われるかどうかはわからないけど、すべての努力は、正しい。
「生きよう」「よりよい方向へ向かおう」としていることだから。
なので、恥じ入ることも、怒る必要もない。
家族に理解してもらえなかったことが理由でやめてしまう努力なんて、努力じゃないです。
もう、そんな領域で動いてるんじゃない。
こちとら、それどろこじゃないんだ。必死なんだ。
だから無理解なんかにいちいち反応せず、光に向かって、いまできることを、粛々とつづけていこう。
「預言者郷里に容れられず」 って。
こういう こと も あるかも だよ ね。
かなしい けれど。(_ _)
かなしいというよりは、これで当然なんだと思います。
ぼくの苦労を家族がわかってくれないように、家族の苦労も細かいところまでは、ぼくにはわかりません。
お互いに、相手の苦労というのは、結局類推でしかないのですね。
なので、こんなことにいちいち反応していたってしょうがないし、いちいちかなしんでいたって、しょうがないです。
ぼくは、ぼくが正しいとおもうことを続けていこうと思います。