もう、いいぜ。

昨晩、いろいろ調べていたんですよね。

ぼくは仏教に興味や関心があるといいながら、よく考えたら、あんまよくわかってない。

とくに「仏教の歴史」を、しらない。

 

そこで軽く調べてみて、ぼくは愕然としたのであります。

これはいったい、どういうことなのか!

 

まずぼくが好きな密教系や禅宗、母親がむかし所属していた日蓮正宗、父親の実家の宗旨である浄土宗は、すべて「中観派」に属するのでありますね。

うん、なんか、聞いたことある。

龍樹というひとがこの思想を確立したわけで、天台宗をはじめぼくたちがよく知っている仏教というのはほとんどこれを中心的な思想として受け継いでいるようです。

「空(くう)」の思想や「縁起」「中道」など、すべてこの中観派に属する考え方なのだそうですね。

龍樹というひとは、だからいわば大乗仏教の祖、ということもできますね。

 

これと別の派閥もあって「唯識派」がある。

これは日本では法相宗という宗派が該当するのだそうです。

唯識派では「すべては深層意識(阿頼耶識)によって生み出されている」と考えるそうで、すなわち目の前にあるそのコップも、実体があるわけではなく、ココロが生み出しているのだ、と。

だからあらゆる存在は客観性などなく、すべて主観的なものだといえる、みたいなことらしい。

 

中観派と唯識派は対立したり、お互いの考えを吸収したりするんだけれども、結局は「存在とは何か」ということをゴリッゴリに考える哲学ということになりそうです。

そして結局のところ、結論は出ていない。

 

存在とはなにか?

ううむ、このことをしっかり考えなければ、大乗仏教に接しているとは言えないのかもしれない。

お釈迦様がどうとか、なんとか宗がどうとかいうまえに、まずそこを学ばないと、ただの拝み屋になってしまうではないか。

この部分をすっとばしたら、もう仏教じゃなくなるんですよね。

キリスト教でいいじゃん、ってなる。

 

いまここにいる「ぼく」という存在は、「ある」といえるのか、それとも「ない」のか。

中観派すなわち日本のほんとんどの仏教では「ない」という話になる。

では、なぜ、ぼくたちは日々、生きていかねばならないのか?

「ない」のに「ある」と観じるメカニズムは、いったいどのような経緯をもって生まれたのであるか。

唯識派によれば「意識」はある、とするようです。

ではその「意識」によって存在している「ぼく」が持つ意識は、「だれの意識」なのか。

ぼくの意識なのか? でも「ぼく」は、意識の産物ということなのではないのか?

そうするとその「意識」はまた、だれの「意識」によって存在が許されているのか。

神様的なことなのか?

いや、でも、神様という「存在」もまた、「意識」が生み出したことになるのだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

にゃぁあ〜ん。

にゃぁあ〜〜〜ご。

にゃぁ〜す。

 

 

アカーン!

これは、アカンぞうっ!

アタマがネコになる!

ネコ出たよ!

あは、あはははは、ネコでたー!

あ、ヨイショーっ!

 

 

 

もういいぜ

 

 

うるっせえよ、あるとかないとか、アルナイナイアル、てめえ中国の手品師か!

おれそーゆーこと考えるの、向いてにゃーす。

いいじゃあねえか、そこに「ある」ものは、「ある」でようー。

「財布なくしちゃった!」

は、「財布が」「ない」で、いいじゃあねえか!

「いいや、もともと財布など本質的にないのである」

いや、あるよ!

正確に言うと、あったよ!

もっというと、なくしただけだから、手元にないだけで、どっかにはあるって!

探そうって!

いくら入ってたの?

あるから!

 

 

 

 

 

あるって!

ほんとに、もうっ、

ニャアアアーーーッ!!!!

フシーーッ!!! シャーーーッ!!

噛むど!

 

もうちっと調べていったら、「六師外道」っていうのもあるんですね。

これも聞いたことある。

これはお釈迦さんが生きていた時代に活躍していた、いわば「異教徒」ですね。

「この、外道がっ!」

ていうのは、ここから来たらしい。

え、もしそうならさあ、仏教もずいぶん、ケツのアナちいさくね?

ほかの宗派のことをボロクソに言ってさあ、しまいに外道扱いするなんてさあ、なんか、ひどくね?

そのひとたちも、おんなじ人間なんだぜ?

 

当時の「六師外道」の考え方は、以下になるそうです。

道徳否定論者(プーラナ・カッサパ):道徳なんかクソじゃ
決定論者 (宿命論)(マッカリ・ゴーサーラ):運命は決まっているからね
唯物論(アジタ・ケーサカンバリン):ぜーんぶ物質なんだぜ
七要素説 (不変・永遠論)(パクダ・カッチャーヤナ):ほんとはだあれも死なないのだ
戒律主義(ニガンタ・ナータプッタ):ジャイナ教の始祖:苦行こそが修行なのだ
不可知論(サンジャヤ・ベーラッティプッタ):なんにもわからないでいいのよ

 

ううむ。

なんか、これはこれで、べつに間違ってなくね?

いや、間違ってるかどうかは、ほんとのところは、よくわかんないよね。

 

とくに最後の「サンジャヤ・ベーラッティプッタ」さんは、なんかいいなあ。

「来世はあるか」

という問に対して、

「知らねぇようー、そんなの」

って答えた。

ただの、おじさんなのかな?

ガード下で飲んでるおじさんに聞いても、きっと同じ答えがかえってくるよね。

いいよね、正直で、いいよね。

屁理屈こねまわすおじさんより、おれ、好きだな。

しらないことを、しってる、っていうおじさんには、わるいひとが多いんだ。

 

そういえば禅のだるまさんも、そうなんですよね。

「禅の功徳はなにか」という王様の問に、

「ねえよ」

って堂々と答えた。

「では、おまえはいったい、誰なのだ」

「知らねぇよ」

 

なんだろう。

 

あれっ?

 

あ、……

にゃぁあ〜ん。

 

なんかもう、いいかな。

ネコ出たし。

なんか、もうそろそろ、そういうの、いいかな。

 

おれ、そんなことよりも、仕事をいっしょうけんめいしようと思うんだ。

あるいは、いっしょうけんめいに遊ぼうと思うんだ。

もしくは、いっしょうけんめい、のんびりしようと思うんだ。

あと、うまいもん食おうぜ。

なんかさあ、もっとさあ、おもしろい話しようぜ。

もう、いいぜ。

 

 

  • ぽぽんた より:

    お釈迦様にも 無記 って ありますね。

    一切 と 争わない。

    それだけ なのかも しれません。(_ _)

    • TERA より:

      コメントありがとうございます。

      そうなんですね~、「無記」ですか。

      そういえば禅でも、「わからんことはほっとけ」っていう方針ですね。

      結局仏教も、中観とか唯識とか、不可知論とか、いろんな考えが混ざりまくっているんでしょうね。

      ぜんぜん体系化されてねえじゃん、って思ったです。

      中観とか唯識の研究をするオタクは多くても、そのへんをビシーと統合してもっと強い哲学を作っていこうぜっていう動きは日本にはないみたいで、それってもう日本って仏教国じゃないんだな、って思いました。

      むかしの財産を整理整頓ばっかりして、なんにも進化してないんじゃん。

      新しい哲学とかも生まれてないどころか、西洋哲学との統合さえされてないし。

      ウチのほうが正しい、ばっかりいうんだもの。ガキみたい。

      新しい宗教は全員、バカみたいなことばっかり言うし。

      そんなのなら、もう不可知論でいいや、って思いますね。

      わからんものは、わからんままで、ええ。

      それに対抗したのが本来の仏教だったんだはずなんですけどねー。

      もう、いいぜ。

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