WebデザイナーやWebプログラマーにとって、「マルチディスプレイ」すなわち2つ以上のディスプレイで作業することは効率化になるというのはもはや常識でもある。
マルチディスプレイは思ったほど効率的ではないという言説もたまに見かけるが、それはおそらく業種によるのだろうと思う。
たとえば営業マンが企画書を書く、ブロガーがブログを書く、経理のひとがエクセルに数値をひたすら打ち込むなどの作業であれば、マルチディスプレイは思ったほどの効率化はもたらさなくて、むしろいたずらに脳疲労を招くだけなのかもしれない。
しかしWebデザイナーやWebプログラマーは、別である。
エディタでコードを書きながらほぼ同時にブラウザで確認をしたり、修正指示書を見ながらコードを修正したり、パワーポイントなどのドキュメントから文章をコピペしてエディタに貼り付けたり、画像エディタから素材の書き出しをターミナルからコマンドで行ったりなどなど、複数のアプリを瞬時に切り替えながら行う必要がある作業が多い場合は確実にマルチディスプレイを使用することで効率がアップする。
ぼくも長年マルチディスプレイ環境で仕事をしてきたが、一時期シングルディスプレイ環境に戻してみたこともあった。
すると、確実に作業効率が低下することがわかった。
当然のことで、いままでは視線を変えるだけでふたつの情報にアクセスできていたのに、シングルディスプレイになるとキーボードのショートカットでウィンドウをスイッチさせる必要がある。
これにたとえ0.1秒の時間しか要さなかったとしても、また、ウィンドウ切り替えのショートカットキーの利用がたった1回につき1回だったとしても、作業が何時間も続けば面倒に感じるようになってくるものである。
そして、イライラしはじめる。
ぼくの作業環境は長年マルチディスプレイで、ある時期は3つの画面を併用していたことさえある。
ことWebデザインに関して言えば、3つのディスプレイでも決して多すぎるとはいえない。
どれかひとつの画面ではYouTubeを流しているだけなどという、そんな無駄なことは起こり得ない。
画面はあるだけきっちり仕事で使えるのである。
だが3画面はさすがに机が狭くなるので、ほとんどの時期は2画面で作業していた。
個人の経験から、「マルチディスプレイは効率化になる」ということに関しては賛成である。
決して間違っていない。
しかし。
ぼくは結局、ディスプレイは1つだけにしたのであった。
それも、ディスプレイはもはや、真正面には置かない。
斜め前に置くようになった。
ディスプレイを斜め前に置く理由は、「視界の自由」のためである。
机を壁につけないで、ディスプレイは1枚だけにしてからだの斜め前に置けば、正面を向いたときにはぐっと視界が広がる。
これが地味に、精神に良い。
やはり人間というのは真正面に「壁」のようなものがあると、精神的に閉塞感を感じるようである。
そこでディスプレイのような巨大な板は正面からすこし「逃して」やることで、少なからぬ自由な開放感を感じる。
呼吸が楽になる。
デスクをL字にしているのにも、理由がある。
L字デスクは作業領域を確保するためではなくて、じつは左右の腕を机に置くためである。
ディスプレイが真正面にあると、肘は椅子の肘掛けに乗せることになる。
そして肘掛けの高さはキーボードとほぼ水平、すなわちデスクの高さとほぼ同じであるときに、もっとも肩や首が楽になる。
しかしそうすると肘掛けがデスクの前面に当たってしまい、からだが机から離れてしまうのである。
すると必然、画面が遠くなり、顔を突き出して画面を覗き見るようになり、首が前に突出する。
そうなると猫背になって、息苦しくなり、精神が汚染されていくのである。
机とからだの距離を適正に保つために肘掛けの高さを下げると、こんどは肘が自由になり、重力に従って下に下がっていき、いずれ肩や首に重大な負荷をかけることになる。
結果猫背になって、息苦しくなり、精神が汚染されていくのである。
そこでL字デスクの内側の角に座り、斜め前方を向き、左右のデスク面を肘掛けにする。
すると腕の重量を天板で支えるため肩や首、背中への重力負荷が軽減されて、姿勢も前のめりにならずにすむ。
結果呼吸が楽になり、精神は汚染されにくくなるのである。
しかし今回は、そのような人間工学的なことを書きたかったのではなかった。
「効率化がもたらす弊害」について書きたかったのであった。
「効率化」という言葉にはグラマラスな美女ほどの魅力があって、蠱惑的である。
効率化すれば仕事がラクになって、売上もアップし、自由な時間も増えてQOLの向上に寄与するであろうというような、まるで「風がふけば桶屋が儲かる」的な、バカまるだしの予測を持ってしまうのが人間の業である。
しかし実際には、そんな甘いものではなかった。
「効率化をすると精神が崩壊する」
ということに気がつくのが、おそすぎた。
働いているのは、人間なのであった。
だから「人間とはどのようないきものであるか」ということを理解しないままに、目の前にぶらさがっている作業をはやく終わらせることばかり見ていると「人間」がないがしろになってしまう。
とくに人間の「こころ」を置きっぱなしにしてしまう傾向が強くなり、記録された時間とカネの計算ばかりして、最短・最小効率、無駄の排除に執着する。
そして結局は、「人間というシステム」が不能に陥ってしまうのであった。
「効率化すれば自由な時間が増える」というのは、妄想以外の何者でもない。
そして仕事ができない馬鹿野郎のたわごとである。
そうではない。
自由な時間はじぶん自身で意図的に作り出すものであって、そこに効率化ということはあまり関係はしていないのであった。
効率化によって空いた時間はまた、仕事で埋め尽くされるだけ。
「効率化すれば売上が上がる」というのも、似たようなものである。
そんな甘いもんじゃねえや。
効率化によってうまれる売上は、あくまでサブである。
売上を左右するメイントリガーは「ビジネルモデル」にある。
ビジネスモデルがクソなのに効率化だけやったって、たいして売上は上がらないし、そのうち逼塞して瓦解するのがオチである。
無駄の排除を一生懸命にやっているくせに、ビジネスモデルの改革というメインタスクを放置するなど、いちばんの無駄をやっているのであった。
「もっとも重要なことはなにか」
「いま改革すべきことはなにか」
ということを正しく認知するためにまず最初に必要なスキルは「見通し」である。
見通しとは、理想という妄想によって未来を想像することなどではなく、「いま」という現実点から放射される直線群をまさにそのまま「見通す」ことにある。
そして、その見通した線を多元的に見渡す視野の広さも必要である。
これらのスキルを身につけるためには、壁に向かって作業をしていてはならない。
目の前をたくさんのディスプレイで埋め尽くしていてはならない。
人間の肉体はこころと「完全に同一」であり、「こころ、イコール、からだ」であるから、肉体の位相はこころの位相と完全に同一である。
「見通しのわるいところにいると、見通しスキルは身につかない」のである。
だから仕事をするときには、最も部屋が広く見える場所に座って仕事をすべきである。
ドアから入って広く見えるレイアウトではなく、じぶんが長時間いる場所から見て広く感じる場所にいる必要がある。
それは端的に、部屋の奥を背にして正面を開放するレイアウトである。
デスクの正面は、完全に開放しておくべきである。
という、結論に至った。
合っているか、誤っているかは、わからない。
でも間違いなくいえるのは、効率化に執着するのは「木を見て森を見ず」と同義である、ということだ。
たくさんの仕事を短時間で終わらせる能力よりも、ラクして安全に稼ぐストラクチャを生み出す創造性のほうが、明らかに重要事項だと思う。
創造性を高めるために、効率化は必要なのか?
創造性は混沌から生まれるという。
厳密な管理下や無駄を排除した世界から生まれるのは、奴隷精神だけである。