先日たまたま目にしたネットの記事を読んで「ううむ」と唸った。
からだが糖を有用な形にかえることができないということは、愛はあっても、それを十分に受け取り、体験することができないということです。愛のある、慈しみのある人間関係を持っているかもしれませんし、愛にあふれた家族の一員かもしれませんが、どうしてもその愛を深いレベルで感じることができないか、感じることに消極的なのです。
– チャック・スペザーノ博士
つまり糖=愛であって、糖代謝に異常があるということは、「愛の代謝」に異常があるのではないか、という考え方です。
すいぶんスピリチュアル寄りの考え方なのであまり没頭しないほうが良いでしょうが、すこし腑に落ちるところもある。
ぼくは長年パニック障害をやっていましたが、その原因のひとつに「低血糖」があったのではないか、と感じています。
とつぜん血糖値が低下すると誰でもパニック発作と同じような症状が出るのだそうです。
実際、パニック発作が起こったときに食事をとると早く症状が収まることも多く、血糖値との関連性はあったのかもしれないと思ったりはします。
さて、なぜ上記の記事に関心を寄せたかと言うと、我が家の家族はみな「糖」に関して何らかの偏りがあるからです。
母親は大の甘党で、若い頃は鍋いっぱいぶんの「あんこ」をペロリと平らげていたり、どらやきを1度に10個も20個も食べたりしていました。
今でも異常なほどの甘いもの好きです。
いっぽう父は、それほど重篤ではありませんが糖尿病です。
そしてぼくは、これはまあ可能性だけですが、低血糖もしくは血糖値スパイクの傾向があって、母親とは真逆で「甘いものが大嫌い」です。
そうなってくると、毎日の食事に問題があるのでは? とまずは考えますが、じつは我が家の食事はかなり健康的です。
ゴハンは1杯しか食べませんし、肉よりも野菜が多く、油ものはほとんど食べませんし、インスタントものはまったく食べず、料理に砂糖など一切使いません。
父は毎晩晩酌をしますが適量で、ぼくと母は一切お酒はやりません。
おそらく食事にはそれほど大きな関係性はないのではと思います。
なので、どうして糖関係で異常が出やすいのか、不思議ではありました。
もしかすると、考え方や哲学に関係しているのではないか?
そう思うようになったのは坐禅をするようになってからですが、ある日忽然と知ったことがあります。
「こころと、からだは、同一である」
心身不二というような消極的なことではなく、「同一」である。
だから考え方などに異常があれば、からだにも必ず異常が出る。
花粉症などのアレルギーが強いひとは、世の中に対して嫌悪感を持っていることが多いのだそうです。
一種の精神的潔癖の様相があって、その価値観と世間のそれが相容れないために、排除しよう抵抗しようというエネルギーベクトルが過剰になって、それが肉体の反射として現れているという考え方です。
個人的には、もちろん100%すべてとは言わないが、ある程度の関係性があるのではと思います。
一時期掃除に非常に凝っていたころ、ぼくは喘息のような症状が良く出ていました。
しかしこれが気分に基づくものだと気がついて、汚れや菌をそれほど嫌わないようにしようと心がけたところ、症状は低減していきました。
汚れや菌などを排除したいという強い気持ちを持つとそれがアレルギー症状となって出るということは、なんとなくこの身体で感じたことでもあります。
さて、糖について。
糖=愛だとすると、「甘いものが異常に好き」ということは、「愛に飢えている」ということが言えるのかもしれません。
これは母の生い立ちを知るとなんとなく合点がいく。
母はど田舎から神戸に出てきたのですが、当時は周囲に知り合いも一切おらずかなり孤独で不安な20代を過ごしていました。
結婚してからは父の仕事の関係上社宅の管理人を任され、ひじょうに横柄で権力思考の強い人たちにイジめられていて、かなりストレスを抱えていました。
母が周囲からの「愛」に欠乏していたことは、まず間違いがありません。
父もまたど田舎から神戸に出てきたのですが、性差や当時の社会環境もあって、おそらく対処の方式が母とは違ったのだと思います。
「冷酷になる」という方式を採用したようなのです。
昭和の悪しき風潮「男は黙って」のように、愛をあえて「表現しない」方向に行ったようです。
「外からの愛が足りない(と感じている)」=「糖を異常に欲しがる」
「内からの愛を出さない」=「糖が体内で累積される」
そんな構図を、つい妄想してしまいます。
ちなみに、愛については、ぼくにもまた特徴があります。
「愛を拒否する」
そんな傾向がある。
あまり人にやさしくされたくは、ないのです。
ウソつけと思われるかもしれないが、ほんとうです。そんなひとは、けっこういると思う。
ぼくには厳しさとか、強さとかを強く求める傾向があって、愛ややさしさを否定しているところがあります。
おそらくは、父と似たようなことですが若干の変化型で、さまざまなストレスや軋轢から逃れるために「愛そのものを捨てる」「人情を捨てる」という方向に舵を切った。
これは自覚があります。
ぼくは元来とてもお人好しで、子どものころは持っているゲーム機を友だちが欲しいといえばあげていたぐらいの馬鹿者でした。
あまりモノとかに執着がなくて、なんでもかんでも、いいよ、いいよで生きていた。
しかしそんなことをしていたら周囲の大人たちからむちゃくちゃ怒られますし、大人になってもお人好しのままだと、ろくに商売もできません。
そこでぼくは、時間をかけて「愛を捨てていった」のでした。
これは自覚があって、できるだけ愛情を受けないようにして、自らを鍛えようという方向性が確かにありました。
ちなみに小学校の卒業時に担任の先生がくれた「おくることば」には、こう書かれていました。
「やさしさを捨てて、強さを手にいれなさい」
そんなアドバイスをもらった子はいなかったので、相当なものだったんだろうと思います。
だからかも、しれません。
糖=愛、とするならば・・・
愛ややさしさを拒否するから、甘いものを拒否する。
そして、じぶんの中の愛を抑え込むから、血糖値が下がる。
ぼくの両親の傾向とあわせると、
「外からの愛が足りない(と感じている)」=「糖を異常に欲しがる」=母
「内なる愛を出さない」=「糖が体内で累積される」=「高血糖」=父
「内外の愛を否定する」=「糖を拒否し、抑えようとする」=「低血糖」=ぼく
両親は、けっして「愛が足りない人」ではないのです。
客観的に見てむしろ人よりも大量の愛を抱えているのではないかと思います。
そしてその子どもだから、ぼくもそうなのかもしれません。
また、そのせいなのかどうかはわかりませんが、ぼくたちは周囲から非常に多くの愛を注がれていると感じることもあります。
とにかく、敵といえるほどのものが、周囲にはないのです。
友人知人、商売関係の人たちもみな、良いひとばかり。
そこで、思ったのです。
結局は、すべてが「自分自身に原因がある」のではないか、と。
周囲に原因があるのではなく、自分自身が「顔を向けている方向」が、原因なのではないか、と。
とかく低血糖のような症状がよく出るということは、食生活云々、遺伝云々だけではなく、
「愛のとらえかた」
にも、ひとつの原因があるのではないか。
「愛を積極的に受け止める」
「内なる愛を押さえつけたり、否定したりしない」
ぼくに必要なことは、もしかすると、こういうことなのかもしれない。
ふと、そんなことを思ったのでした。
なぜ愛を、拒否るのか。
ぼくにはすこし、わかっています。
「強いエゴ」が、そうさせている。
なにごとも「ぼくが」がんばって、努力して、なんとかしないといけない。
そんなふうに生きてきたから、愛が邪魔だったんだ。
でも最近、気が付きました。
そういうことじゃ、ない。
努力も、がんばるのも、良いことだけど、一番大事なのは「ひとを信じる」ということ。
そして人を信じるためには、じぶんを信じなければならない。
お互いに、信じること。
それが、じつは「愛」だったりします。
愛が足りないんじゃなくて、見えていないだけかもしれない。
愛は手に入れるものではなくて、気づくものなのかもしれない。
エゴというめがねを外せば、この世は愛だけでできていることが見えるのかもしれない。
糖の代謝は、愛の代謝。
糖の希求は、愛の希求。
そういうふうに考えてみると、けっこう面白いかもしれないですね。