まずは、ヴァータをなんとかしよう。

注文していた本が届きました。

パーフェクト・ヘルス ディーパック・チョプラ著

お医者さんが書いたアーユルヴェーダの本です。

 

この本に記載されている「ドーシャ診断」をしてみたら、予想通りかつ、びっくりの結果になりました。

ヴァータ(風)・・・93点

ピッタ(火)・・・96点

カパ(水)・・・52点

火と風のコラボレーションでありますね。

それもけっこうな高得点をはじき出したのでありました。

※ 家族にもやってもらう目的で、PDF化してみました。

dosha_diagnosis

 

久々ですね。

「なるほどっ!」と膝を打ったのは。

パニック障害を治そうと思っていろんな本を読んできました。

そのどれもが、それなりに説得力はありましたが、それほど納得感を感じないものばかりでした。

せいぜい

「なるほど、そういうものなのかもしれないな」

程度の感想。

しかしこの本については、

「ものすごく納得感がある。これは効くにちがいない」

と思わせるものがあります。

たぶん、ずっとヨガをしてきているので、考え方がスーっと入ってくるというのはあるんだと思います。

 

アーユルヴェーダの本を「ちゃんと」読んだのは、じつは始めてです。

で思ったのが、「ヴァータが強いのならヴァータを下げるものを食えばいい」というような、そんな安直なものでもないのだろう、ということでした。

ネットでちょろっと検索して、付け焼き刃の知識でもって、小手先の食い物を変えるというのでは、うまくいかなそうだ。

ドーシャを調整するということは、
生き方を調整するということだ。

ということに、気が付きました。

 

本は、あくまでただの知識にすぎません。

これをちゃんと理解し、消化して、ただしい行動をするためには、食い物を改めるのではなく、生き方そのものを改める必要がありそうです。

つまり、ヨガの基本でもある「ちゃんとじぶんのカラダの声に、耳を傾ける」。

ネットや本の文字列やメソッドに注視するのではなく、じぶんの内なる声に、注視しなくてはいけない。

そんなことを、思いました。

 

ピッタとヴァータがともに高いと、ややこしいです。

たとえば、リンゴはヴァータにとっては良いけれど、ピッタにとってはあまり良くない、というようなことがあります。

どうすればいいんだっ!

こういうときは、一般的な問題解決と同じ手法をとることが吉だろうと思いました。

複数の問題が同時に発生したばあいは、解決が容易そうなものから先に着手して、ひとひとつ解決していく。

これが基本だと思います。

同時に解決しようとしたり、公約数的なものを探し、芋づる式を狙ったりしていると、結局はどれも解決できない。

二兎を追う者は一兎をも得ず。

なので、まずは点数が「ちょっとだけ」低いヴァータから取り組むことにしました。

そして、いわゆるパニック発作などの不具合の原因の大部分は、このヴァータの乱れによるところが大きそうだというのもあります。

手足が冷え、不安や恐怖を感じ、おちつかず、急ぎ、焦る。

これは明らかに、ヴァータの不具合なのだそうです。

ピッタのほうは、ぼくの場合「怒り」や、「がんばりすぎてしまう」「完璧主義になる」といった、思考に関するところが関係していそうです。

こちらも当然放置するわけではありませんが、順位としてはまず、ヴァータから攻めてみようと思いました。

 

自己診断をしていて、気が付きました。

ドーシャは、環境によって、成長に寄って変化しているんだ、ということに。

たとえば、ぼくはもともとは「カパ」の性質だったと思います。

とくに小学生のころは、完全にカパだったはず。

まず「怒る」という意味がわからないぐらいオットリしていたし、のろまで、よく眠る子で、欲がすくなく、競争心なく、よく食べ、のほほんとして、マイペースで、よく呆然としていました。

心情は基本、平和そのものでした。

しかし小学生のころは呼吸器系、とくに鼻まわりに問題が多くて、これもまたカパの特徴なんだそうです。

中学生から柔道をはじめたりして、強い運動を継続することで、どうやら徐々に「火」が強くなっていったようです。

受験競争や就職競争、仕事など、そういったものを経過していくうちに、こんどは「風」の要素も増えていった。

考えてみれば、日本には「カパを許さぬ」世相のようなものがあるんですね。

落ち着きなく、強欲で、声大きく、スピード早く、意志の強さと、完璧さと、リーダーシップを美徳とする。

ピッタやヴァータの特性のほうが、良いことのような雰囲気があるんです。

いっぽう、のろまで、よく眠り、少欲で、やさしいヒトという、カパの典型のような人は、若干ダメ人間のようなイメージさえあります。

 

だから思うんです。

「ぼくは、ピッタとヴァータのちからを手に入れたくて、こうなったのではないか」

うっかり間違えてそうなったというよりは、ピッタとヴァータがまったく同じように高いのは、ぼくが理想としていた人物像に首尾よく到達したということかもしれません。

のんびりやさんのマイペースは、ダメだと言われて育ちました。

ぼくは、スピード感があり、怒ることができて、快活で、あたまの回転が良くて、おもしろく、欲が強い人になりたいと、切に願った。

そして、ぼくの願いは、かなった。

ピッタとヴァータがものすごく高いヒトになった。

そうなろうと思ったから、そうなったんだと思う。

失敗して、こうなったんじゃない。

成功して、たしかにピッタとヴァータの恩恵は、たくさん受けました。

その恩恵と引き換えに、「ピッタとヴァータのわるいところ」をいま、享受しているところなのかもしれません。

 

いっぽうアーユルヴェーダでは、「カパの特性が強いひとは幸福者である」とされているようです。

ぼくも、そう思う。

のんびり、少欲、怒らない、やさしい。

仏教だって、これをめざしているようなものですからね。

しかしカパもまた、あまりに偏りすぎると、さまざまな肉体的不具合や、ウツなどを発症しやすくなるんだそうです。

 

バランス。

ことばでは、そういうことをよく言います。

では、じゃあ具体的に、バランスって、どういうことなんだろう。

何の、バランスなの?

どういった種類の、バランスなの?

どんな要素の、バランスなの?

こんなシンプルな疑問に対する答えは、じつはあまり、お目にかかりません。

アーユルヴェーダは、「バランス」ということについて、徹底的に突き詰めていった、一種の哲学かもしれませんね。

 

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