消える正義感

さいきん体温が下がっているなあと思っていたら、あることに気がついた。

正義感が、減っている。ぼくの。

なんだ?

おれの体温は、正義感でできていたのか?

 

家系的に「正義感の強い」家柄ではあります。

両親ともに古い武士の筋だったし、父方は憲兵や警察という職業のひとが多いです。

母方は豪農でしたが江戸時代以前はわりと位の高い武士だったそうです。

幼少のころから「正義」ということについては無言有言含めて教え込まれていたところがありました。

両親とも非常に真面目で、まちがったこと、曲がったことが大嫌い。

 

さて両親とぼくは、みんな若いころから血圧が高い。

とくに母親の血圧が高いです。

しかしみんな、内臓的にはとくに問題はありません。

なんだろう、そーゆー体質なのかなあ、と思っていました。

どうやらこの高血圧、「正義感」と関係しているのかもしれません。

 

真面目で、正義感がつよい。

そういう人は「怒りやすい」のだそうです。

すぐ怒るの。

こころのなかに強い価値観や信念があると、それと合致しないものには拒否反応を示しやすくなります。

この拒否反応こそが「怒り」なんだそうです。

 

真面目で正義感が強いというのは、一般的にはなんだか「良いこと」のようなイメージもあります。

しかし冷静に考えてみると……真面目で正義感が強いのは、じつはタバコと一緒で「百害あって一利なし」なのでありました。

・怒りっぽくなる

・ストレスを感じやすくなる

・肩こり、腰痛になりやすくなる

・血圧が高くなる

・風邪を引きやすくなる

・自己免疫疾患にかかりやすくなる

・アレルギーになりやすくなる

・お酒などの薬物に依存しがちになる

・太りやすくなる

・精神疾患にかかりやすくなる

・成人病にかかりやすくなる

・脳梗塞や心筋梗塞の確率が高くなる

・ガンになりやすくなる

 

精神的・肉体的にはまず、以上のような問題があります。

つまりは「交感神経型」になってしまう、ということですね。

 

さて、そしてここからが大問題なのですけれども、その「正義」というのは、じつにまさに「妄想」以外の何ものでもないのでありますよね。

「正義」だと今わたしが考えている根拠はなにかと執拗に突き詰めていくと結局は「わたしの側に都合が良い」ということにすぎなかったりする。

ヤクザにとっての正義はケーサツにとっては悪かもしれない。

ケーサツにとっての正義はヤクザにとっては悪かもしれない。

宗教にとっての正義は信者以外には悪かもしれない。

道徳でいう正義は別の世界では悪かもしれない。

つまりは絶対的なものではなく相対的なもので、したがって真理でもない。

客観的に見れば、それはたんなる「偏見」ともいえてしまう。

あるいはそれが正義であると教わったことをアウフヘーベンしてなんにも考えずただ隷属し、反射的にルールを守っているだけという一種の「怠惰」であったりもして、それじゃあまさに妄想です。

妄想に過ぎないようなものに囚われて、それで怒ってストレス溜めてカラダとかココロを壊しているようじゃあ、ほんとうにまったく「自業自得」でございます。

おれは真面目に生きてきたのに、どーして病気なんかになるんだっ!

チキショーー! 道理はどこへいったーー!

なんつって、いや、その「真面目さ」が原因だったりして。

真面目=善、とか、真面目にしていれば功徳がある、とかいうような、そんな妄想と迷信に拿捕されていたことが原因であーる。

 

正義感を理由に悪いことをしないだなんて、ナメてるんでございますよね。

そんなショボいアレじゃなくて、うざってえから、悪いことはしないのです。

悪いことをしたら捕まる可能性があって、ケーサツの目を気にしてヒヤヒヤしながら生きていく必要があるのです。

高いリスクのわりにベネフィットが少なすぎるから、しょうもないことはしない。

それでいいのだ。

っていうか、それがいちばん「まっとう」なんですよねえ。

だからどうあっても絶対に捕まらないというのであれば、悪いことをしたってかまわん。

法治国家だから、それでいいのであります。

「そんなのは大和魂に反する」なんていうタワゴトも、いらねえのでございます。

大和魂のせいで怒りっぽくなって高血圧になって病気して、妄想の奴隷になったりするぐらいならその程度の低俗な魂であります。

つまらん!

それにそもそも大和魂っていうのは「うわあ~、お月さま、きれい~~」なんていう、どっちかっていうとアホみてえな純情感動体質のことを指すという説もある。

正義感が強く真面目で献身的なことを大和魂というようになったのは、世界大戦以降なんだそうです。

70年以上も昔のことに、なぜいつまでもウジウジと岩の下の虫のようにへばりついておるのか。

 

っていう感じで、どうやら「正義感」という部品がポロっととれてしまったような気がするんだなあ。

どうしてかは、わからないのですけれども。

これはいいことなのか、わるいことなのか。

「正義感」という部品がないと、もうそれすらもよくわからないんですよね。

べつにいいじゃん。

わるいことは、しなければいいの。

わるいことをしたひとを憎むようなひとは、べつに「いいひと」ではないです。

憎しみを持っているぶん、むしろわるいひとかもしれない。

いいひとは、いいことをしたひとのことだけをいう。

わるいことが嫌いでいいことが好きなだけなら、それはべつに、ただのひとです。

 

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