パニック障害はなぜ、芸能人に多いのか?
この命題については、さまざまな説があります。
・多忙かつ不規則な生活を強いられ、過労になりがちなため
・そもそも芸術的感性が高く、脳神経が繊細である
・個性を売りにしているため代替が効かず、逃げられない局面が多い
・事務所やファンからの期待とプレッシャーが強い
・社会的責任を追求される可能性が高く、重圧がある
などなどが、よく言われることです。
なるほどな、と思います。
個人的には、これ以外にも「自分自身とペルソナとの乖離」もあるのでは、と思ったりします。
ペルソナというのは心理学・哲学用語で、「役割」とか「仮面」とかいう意味です。
エピクテトスは、言いました。
あなたはこの世界という演劇の一人の役者である。
あなたの役割はただひとつ。
与えられたその役を見事に演じることだ。
一人の人間でも、複数のペルソナを演じていることが普通なんだそうです。
社員としての私、親としての私、子としての私、社会人としての私、友人としての私、配偶者や恋人としての私、などなど。
年齢を重ねるほどに、ペルソナの数は増えていく。
ウソをついているというわけではなく、ヒトはそのコミュニティーに応じたペルソナを無意識のうちに演じているものなのだそうです。
ペルソナなんていう学術用語よりも、「キャラ設定」とでもいったほうがわかりやすいかもしれませんね。
元気なキャラ、あかるいキャラ、快活なキャラ、すなおなキャラ。
そんなのを、コミュニティや人に対して、わりと器用に使い分けている。
ヒトは誰でも皆ペルソナを持っていますが、「ほんとうの自分」とペルソナとの距離感は、ひとそれぞれです。
ペルソナ(キャラ)と「ほんとうの自分」に、あまり差がない人もいれば、全然違うひともいます。
またいわゆる「八方美人」に類するような人もいて、ペルソナの枚数は少ないものの、その仮面と「ほんとうの自分」とが非常に乖離している、という場合もあるようです。
芸能人というのは「キャラ」を売り物にしているところがあります。
キャラが薄いと売れない、とまで言われます。
よって必然的に「強いキャラ」を演じている必要性も高くなると思われます。
べつに裏表が激しいという意味ではなく「あとづけのキャラ設定」を強要された人も多いのではないか。
そういえばパニック障害になった芸能人は、あまりキャラが強くない人が多い気もします。
これは悪い意味ではなくて、どちらかというとマイルドで常識的で、あまり変人臭のない、正常な人というイメージが強いということです。
それはそれで良いとは思うのですが、タレントとしては若干弱い部分もあるかもしれません。
「ほとんど変人」ぐらいのキャラを持っているほうが芸能人としてはトクな部分もあるでしょう。
なんか、事務所から言われるんじゃないかなと思うのです。
そんなのじゃキャラが薄すぎるから、もっと個性を出していきなさい、みたいな。
ふつうに考えれば、もともとすごい才能があるんだから、それでもう十分に個性的なはずなんですけどね。
でも芸能界はそう甘くもないのでしょうから、もっともっと激烈な個性を打ち出していく必要があるのかもしれません。
そこで、自分自身と乖離したキャラを演じ続ける人も多いのではないかなあ。
ペルソナと本人の性質に大幅な乖離があると、心は病み始めるのだそうです。
ほんとうは真面目で寡黙な性格なのに、「いい加減でおしゃべりな性格」を無理に演じつづけていると、こころに亀裂が入ってくるそうです。
芸能人にパニック障害が多いのは、職業特有のストレスもさることながら、「乖離したペルソナ」が原因であることもあるのかな、と思います。
一般にパニック障害やウツのひとには、以下のような共通点があるようです。
・まじめ
・常識的
・コミュニケーション能力が高い
・機転が利く
・協調性が高い
など。
はて、ぼくは思うに、上記の特質そのものが「ペルソナ」なのではないか? と思ったりするのです。
つまり、まじめで常識的で、コミュ力高く、機転が利く性格は、後付けで生成されたキャラ設定なのではないか。
完璧すぎるんですよ。意図を感じる。
そんな人間、いるもんか、って。
自分も含めて周囲でパニック障害を患った仲の良い人は、「もともとコミュニケーションが苦手だった」人ばかりです。
ほんとうは、いい加減で、怠惰で、わがままだった。
ぼくはマジでそうで、じつは高校生になるまでは、誰ともまともに話ができないタイプでした。
人前に出ると脂汗が出るタイプで、なにを喋っていいのかさえわからないのです。
しかし「これではいかん」と気が付き、積極的に人と接するようにしていきました。
努力の甲斐あって、ぼくはその後、100人の人を前にして喋ってもアガらくなり、人と会話することは得意になっていったのでした。
ぼくの印象は「あの、話が面白くてうまい人」なのだそうです。
そんなことない。
ぼくは元来、人とおしゃべりするのは大嫌いだったし、苦手でした。
しかし「それではダメだから」、努力して「コミュ力の高いヒト」という仮面を手に入れたのです。
時間に正確、常識的、まじめ、じつはぜんぶ、そうです。
ぼくは小学生のころから、ちょっとアタマおかしいんじゃないかというぐらい、非常識な子供でした。
いくら体罰を受けても先生の言うことは絶対に聞かない、時間なんか絶対に守らない、美術室で突然消化器を噴霧する、いじめっ子をいじめて登校拒否にさせる、いったん家を出たらいつ帰ってくるかわからない、かってに人の家にあがりこむ、というような、非常識極まりない、自由人を地で行くようなガキでした。
しかしこれも「これではいかん」と自分で気が付き、矯正していきました。
ぼくはもう一枚、まじめで、聞き分けの良い、常識的で、やさしい、協調性が高い、おもいやりのある人という「仮面」を手に入れた。
パニック障害って、この「仮面」がぶっ壊れたんじゃないかな、と思うんです。
本物の自分とあまりにも乖離していた仮面だから、サイズもカタチも合わなくて、壊れちゃったんじゃないか。
というのも、パニックになってから、独立して自営になって、徐々に人と接することを敬遠するようになった。
「予期不安でそうなった」というには、あまりにも意図的すぎるのです。
正直に言う。
ぼくはほんとうは、愛想よく人と接するのは嫌いなんです。
ヘラヘラしたくない。
人とツルむのも大嫌いだし、気に食わない仕事なんか願い下げです。
ある意味、パニック障害サマサマ、外出恐怖サマサマなんですよ。
これを理由に、あまり人に接さずに、仕事ができるようになった。
「そうしたかったから、そうなった」
そんな感じが否めないんですね。
ただ、ぼくはべつに人が嫌いなのではないです。むしろ大好きです。
人は好きだけど、必要以上にあんまり深く接したくない。
ただ、それだけのことです。
「ナマのぼく」を出すことが、怖いのかもしれないのです。
幼稚園生のころから、あまりにも強烈なキャラのせいで、先生や親からたびたび体罰を被っていました。
ふとももには、ずっとミミズ腫れがありました。
そうやって「痛みと恐怖で」ほんものの自分を封印し、ぼくは「仮面」を作った。
そして幸か不幸か、この仮面の完成度は、かなり高かった。
家族や人だけじゃなく、じぶんさえも騙せるほどの完成度でした。
非常識だけど、器用なんです。
でも、壊れちゃったんだ。36歳のときに。
じぶんとまったく違う仮面だから、合わなかったんだな。
仮面がぶっ壊れたぼくは、ペルソナを失ってしまった。
ぼくはいま、誰に対しても、ほとんど差がない接し方をしています。
家族にも、新聞屋さんにも、先輩に対しても、お客さんに対してさえも、「おなじぼく」で接してる。
これは、一見良いことにように見えます。
でも、ぜんぜんちがうんだな。
裸で人前に出る不安。
そんなのが始終、つきまといます。
無防備過ぎるのも、不安なのです。
「ペルソナが一切ない人間」はまた、不自然極まりない。
人間は、そこまで強くはないのです。
あの仮面はもう、壊れてしまった。
だからぼくはいま、もういちど、あたらしい仮面をつくっている最中です。
こんどは、まちがえないようにしよう。
サイズとタイプぐらいは、ちゃんと合わせて仕立てようと思います。
極彩色で気色の悪いデザインになるだろうけど、ペルソナは靴とおなじで「見ばえ」だけでなく「通気性とフィット感」が非常にだいじです。
ペルソナは、じぶんが身につけるものだから。
あわない仮面をつけていたら、こころも、仮面も、一緒に壊れる。