重力に逆らえないひとは、運命にも逆らえない。

どうやらぼくは、何らかの原因で間違った思想に染まっていたようである。

「重力には逆らわない」

本やネットでそのような情報に触れてしまったのかもしれない。

確かにある種の整体あるいは武道のオタク系界隈においては、そのようなことが主張されることがある。

重力は逆らうものではなく、利用するものである、というようなわかったようなことを言う。

あるいは重力に逆らわないよう、重力線に「沿った」姿勢を保持するべきである、とも言う。

 

まあ、間違いということではないのだろうと思う。正しい側面もあるとは思う。

しかし、もしこのような説が正しかったとしても「重力に逆らわない生き方が正しい」という結論に至るのは、おそらく検証が不十分である。

というのも「重力に一切逆らわない生き方をつづけるとどうなるのか」ということが考慮されていないからである。

もし重力線に逆らわず、最低限のパワーしか使わないような生き方をしていたら、どうなるだろうか。

それは小難しい実験をせずとも、寝たきりの人を見れば一目瞭然である。

寝たきりとはいかなくても、日がな一日ずっとデスクワークでほとんど歩かず、休むのもソファでゴロゴロ、という人を見てみれば良い。

当たり前なのであった。

重力に逆らわない生き方をしていると、抗重力筋が弱体化し「重力に勝てない人」になっていくのであった。

 

最近立って仕事をするようになって、よくわかった。

以前は油断すると背中が丸く、猫背になってしまうことが多かった。

このことで肋骨が下垂し胸郭が狭まり、呼吸が浅くなって、息苦しさやだるさをよく感じていた。

立ちくらみもよく起こしていた。

しかし頑張って立って仕事をするようになると、姿勢が崩れにくくなってきたのだった。

「矯正された」わけではない。

ただ単純に、腹筋や背筋のうち、抗重力筋といわれる重力に反発し姿勢を保持する筋肉群が強くなった。

座って仕事をしても、背中が丸くなりにくくなった。

 

あまり認めたくない事実であるが、結局はキンニクだったのである。

姿勢は、キンニクだった。

筋肉の量というよりは、筋肉の「指向性」といったほうが良いように思う。

ただ筋肉がついている、ついていないだけではなく、仮にその量は少なかったとしても「ちゃんと重力と戦っているか」「重力と戦おうとしているか」というところが重要のような気がする。

 

抗重力筋は、精神にも影響することがわかった。

・勝負事を忌み嫌う

・「勝つ」ということばが嫌い

・差別や格差ということばに神経質になる

・平和主義と称し、戦うことから逃げようとする

・理想主義である

これらの特性はいわゆる「性格」ではなかった。

ましてや思想でもなかった。

ただ単純に、抗重力筋が弱っているだけなのであった。

「重力に勝てない」と、「勝てない人間になる」のであった。

 

そんなばかな、と思う節もあるかもしれないが、案外そうでもないようである。

「脳はどこにあるか」と聞かれたら、ほんとんどの人は「頭にある」と答える。

しかしこれは、間違えているらしい。

脳というのは神経の集合体であって、いわば神経叢である。

この神経叢は腹部や背部にもあり、意外なことで、じつは筋肉もりっぱな神経叢なのだそうである。

じつは筋肉は、それ単体でも結構高度な情報処理や、そこそこ大量の情報保管が可能であるらしい。

イメージとしては筋肉というのは機械でいえばモーターで、それを動かしたり操作したりするのは神経という電線を通して「あたま」が行っているように思う。

しかし実際にはそれほど単純ではなく、たしかに「頭の神経叢」からの司令もあるが、それだけではなく筋肉それそのものでも思考や判断をしているそうである。

つまり末端と中枢の両方の神経叢の相互補完によって、高度な情報処理が行われているのであった。

いわば「筋肉は脳」なのであって、人類とはすなわち「全身これ脳なり」といえる。

このことの証拠に、まったく運動をしていない人よりも、スポーツなどを習慣的に行って十分な筋肉量を持っているひとのほうが知能指数が高いことが多い。

スポーツマンを「脳筋」といってバカにする人もいるが、じつは真逆で、なんの運動もせず理屈ばっかりこね回している人の方がバカなのであった。

客観的に見てみれば、確かにそうだ。

運動が苦手な人は、仮に勉強はできたとしても「総合的な思考能力」において劣ることが圧倒的に多い。

不器用で、くだらないことにこだわり、臆病で、判断が遅く、カンが鈍く、誤った判断が多く、継続力がなく、すぐに逃げたり、文句ばかり言う。

企業が体育会の人を採用したがるのは、なにもチームワークだの軍事力だのではなく、単純に「個人の総合的思考能力」を期待しているところもあるらしい。

 

重力に逆らえないひとは、運命にも逆らえない。

重力に「逆らう」という方向性が、精神にも影響するのであろう。

重力に負けっぱなしであると、自身に不都合なことが起こっても、それを受け入れてしまうようである。

不運に逆らい、戦い、なんとか跳ねのけようと努力をしない。

これはぼく自身にも経験がある。

抗重力筋のパワーが低下していると、ほんとうにそんなふうになるのである。

何事もすぐにあきらめてしまう。

「あきらめ」という言葉は、仏教国であるわが国においては少し良い意味がある。

しかしこの「あきらめ」という言葉に聖性を感じることこそが、まさに抗重力筋の低下であった。

考えてみれば、ブッダの偉大な悟りというものが「気弱で、すぐにあきらめること」であるはずがない。

むしろ仏道には、決してあきらめず不退転の決意と決死の覚悟で金剛座を守り抜く気概が必要なはずである。

なのに、いったいどういうことなのか、仏教に「負け犬を褒める」ような定義をしてしまう場合がある。

これは抗重力筋のパワー低下によって起きることのようであった。

「戦う」ということが、なにかしら悪魔的に見えてきて、良くないことのようにも思えてくる。

しかし抗重力筋に活が入ってくると、全然違うように思うようになる。

確かに平和は大事なことで、この世の基盤である。

しかし、これを脅かすものには断固として「戦う」べきであると考える。

平和であることと、戦うことら逃げることは、根本的に意味がちがう。

そのように考えるようにもなる。

 

結局人間性というのは、ホルモンと遺伝子と筋力によって定義されているのだろうか。

もしそうならば「わたしはかくかく、しかじかの人間である」などと諦めたり、悩んだりする必要は、ないのかもしれない。

遺伝子はともかく、筋肉は努力によって変化させられることだからである。

筋肉を変化させることは比較的容易で、筋肉が変化するとホルモンが変化する。

 

「いま、わたしが感じていること、考えていること」

これは意外と、根無し草であった。

抗重力筋のパワー増加によって、考えていることは180度変わることもある。

 

おのが筋肉さえ鍛えることができないひとは、

じぶんの弱さにうち勝つことができず、

したがって、

運命にも負け続けるのかもしれない。

 

 

わたしの筋肉が、野太い声で、叫んでいるのである。

 

 

「抗え。」

 

 

いのちとは、あらがうことである。

いきるとは、あらがうことである。

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