なるほどな。
「そういうふうに考えると、なんか前向きになれる」
っていうのは、たくさんありますね。
まあ姑息と言えば姑息だけど、べつにいいじゃねえか。
馬場俊英さんの「人生という名の列車」っていう歌詞が面白いのです。
三十代は大人の十代 青春を繰り返すような時が流れて
家族が増えて 生まれ変わった夢もある
大人になった子供たちはみな 不器用な旅人だけど
「いつか僕のチャンピオンベルトを必ず腰に巻いてやる」
誰だって 押し入れにしまえぬ想いがあるさ
「三十代は大人の十代」
まあ、屁理屈なんですけどね。
でもなんていうか、なるほどな、と思いました。
だからぼくはまだ「大人の二十代」というわけです。
なんだ。
まだ若造じゃあねえか。小僧め!
そう思うよね。
もうちょっといっても、まだ大人の三十代なんだなあ。
40代になってくると「もう人生の半ばを越えた感」「最盛期は過ぎた感」を感じてしまうんですね。
これは、更年期障害の症状のひとつでもあるんです。
ぼくは思うんだけど、「更年期障害の症状で」→「最盛期は過ぎたと感じる」のではなくて、むしろ逆なんじゃないかなあ。
「最盛期は過ぎた」と思うからこそ、更年期障害になっちゃうんじゃないの。
更年期障害って、女らしい・男らしいひとがなりやすい、っていう話もあるんです。
もともとホルモンが多い人、ってことですね。
そういう人って、ホルモンが減ったときの「減った感」が、ものすごいんだそうです。
だから「最盛期を過ぎた感」がヒトシオだっていうのもあるかもしれませんね。
そう感じちゃったから、精神的にもショックを受けて、いろんな不具合が出まくるのかも。
ま、もしかして、ですけどね。
なんかこう、世間一般ていうか常識っていうか、そのへんのアレでいくと「40代はもうオッサン・オバハンである」という定義みたいなのがあるんですね。
いや、まあ、それはそれで合ってるんですけどね。なんにも間違ってない。超合ってる。
だけれども、この「合ってる」はあくまで「医学的に見て」なんですよね。
でも人間は、べつに医学的な存在ではありません。
生物的、社会的にも、ぼくたちは「人間」です。
だからまあ屁理屈と言えば屁理屈なんだけど、「40代は大人の20代」っていうのは、あながち間違ってないともいえるんですよね。
社会的存在としての人間は、20代っていうのはまだまだガキであることは確かです。
だから40代でもう完成地点を過ぎているというのは、ちょっとエラソーすぎる考え方ではあります。
映画「インフェルノ」でも、イルファーン・カーン氏演じるハリー・シムズが言ってましたよね。
「やっぱり人間は35才ぐらいにならないとダメだな」
なんか腑に落ちるんだよなあ。
自分のことを振り返っても。
「更年期を迎えたらもう終わり」とかでもないんですよね。
あるいみ、更年期の年齢なんてまだまだクソガキなんですわ。はなたれだ。
35歳ぐらいと55歳ぐらいの2回にわけて、人間って完成していくんじゃないのかなあ。
前者は生物学的な意味で、後者は社会学的な意味で。
じぶんの親父を見ていても、思うんですよね。
もう80近いですけど、元気元気。
そういうのを見ていると、40代50代なんて、ぜんぜんまったくガキだなあと思います。
あと、半分も残ってるんだぞ。
なのにまだ半分行くか行かないかぐらいのことろで「もう勝負ついたな」とか思ったり、守りに入ったり、悟ったみたいなこと言うのって、勘違いも甚だしいんですよね。
なにをこんなところで、息切れしてんだばかやろう。
後半から調子出てくるやつだって、いっぱいいるんだからな。
40代は、おとなの20代。
50代は、おとなの30代。
ていうことはつまり、まだまだ社会勉強が必要です、ってことだ。
まだまだ知らないこと、経験していないことは、やまほどある。
なのにもう長老ぶって、この世のことを知ったような顔をするなんて、傲慢にもほどがあるね。
20代、30代で何をしたかによって、その後の人生が決まる。
あきらめてる場合じゃないぞ。