和平の枠組

先日のウクライナのゼレンスキー大統領演説を聞いて、不謹慎かもしれないがすこしだけ安心した。

彼は先立つアメリカでの演説では「あの真珠湾攻撃を思い出せ」みたいなことを言って煽っていたから、日本に対しては「あの原爆投下を思い出せ」的なことを言って煽ってくるのではないか。

そして軍備増強資金を寄越せと言ってくるのではないか、などと心配していた。

しかし実際にはそのような「目前の戦闘のための支援」ではなく「戦争終結後の復興に協力してほしい」というようなオーダーにとどまっていたように思う。

 

このことをして、ゼレンスキー大統領の演説については一般的に「薄味だった」とか「日本には何も期待していないんじゃないか」とかいうふうに捉える人も多いようである。

たしかに、そのようにも感じる。

しかしなぜそのように感じるかというと、ぼくたちが「世界にどう見られているか」ということをあまり知らないからかもしれない、とも思った。

日本人はもしかすると遺伝子にも関係があるのかもしれないが「じぶんの長所よりも短所に注視する」という傾向がある。

おのれのダメなところ、弱いところに異常に強い関心を示し、またそれを改善しようという努力はわりと厭わないのだが、いっぽうでおのれの良いところ、強いところにはあまり関心がなく、それを利用しようとか、強化しようとはあまり考えないようである。

卑屈とも言えるし、謙虚ともいえるのかもしれないが、いずれにせよ「おのれを正しく認識できていない」ということが往々にしてあるような気がする。

 

おそらく日本は世界から見ると「驚異的国家」なのではないかと思う。

もともとはその存在すらあまり知られていない、これといった資源もない極東の地味で貧しい島国だったのが「全世界を相手に」ものすごい戦争をおっぱじめた。

未開地域のアホな土人が何をやっとるんじゃ、んなもんすぐ負けるわいと思っていたら、意外なことでむちゃくちゃ粘るし戦略も高度で軍隊は統制がとれており、加えてすさまじい技術力で名だたる先進国の軍隊としのぎを削る戦争を継続するのである。

結局は「世界で唯一」原子爆弾を投下されて日本は敗戦した。

逆に言えば、そんなエグいものを投下しなければどうしようもないぐらい日本は「しぶとかった」ともいえる。

普通に考えれば、この敗戦で日本という国は消滅しても全然おかしくはなかったのである。

しかし意外や意外、こんどはそこから経済で発展してきてとうとう世界第二位の経済大国にまで上り詰め、圧倒的短期間で先進国の仲間入りをしていく。

おそらく、当時の欧米諸国は「度肝を抜かれた」のではないかと思う。

だからこそ「ニンジャ」とか「サムライ」とかいう言葉が一種のファンタジー的感傷をもって諸外国に浸透したのかもしれない。

また日本はその後数度、甚大な震災を経験することになる。

しかしその震災さえもまた乗り越えた。

ただ乗り越えたのではなく「超弩級の短期間で」復興してしまったのである。

 

キリスト教圏では、「復活」という概念には日本人が思っている以上に重大な意味がある。

もしかしたら欧米諸国はこの一連の日本の不死鳥のごとき「復活のちから」については驚異の念、場合によっては畏敬の念すら持っているのかもしれない。

ぼくもこれを書いていて、改めて客観的に見ると素直に「すげえ国だな」と思った。

だからこそ、ゼレンスキー大統領は日本に求めたのかもしれない。

「復活の手助けをしてほしい」

日本の驚異的、もはや奇跡的とすらいえる「復活のちから」を貸してほしい、と。

ゼレンスキー大統領は、日本の長所を「壊すちから」ではなく「復活するちから」と見たのではないか。

 

ゼレンスキー大統領は正しい、と思う。

ぼくも「謙虚で卑屈な」傾向が強い根っからの日本人なので、日本の何がすごいのか正直よくわからない。

みんなそこそこ賢くて優しいが、優柔不断で同調圧力の強いばかみたいな国だなと思うこともよくある。

しかし歴史的事実を改めて見てみると、日本の「復活のちから」は、これは確かに驚異的だと思う。

信じられないほどの、もはや作り話のような、ファンタジーのようなパワーなのである。

これを貸してくれという大統領は、ひじょうに冷静な判断力を持っている人なのではないかと思う。

 

しかし最後に女性の議員さんがスピーチをしはじめたときに、ひどい違和感を感じた。

「祖国のために戦っている姿とその勇気に感動している」

みたいなことを、まるで舞台の演劇のような口調で言い出したのである。

なんちゅうかその、それって感動レイプ的というか、安物っぽいというか、なんかスポーツ観戦の情緒的な表現みたいな感じで、バカにしてんのかな、とか感じてしまった。

当然だが前もって準備していた原稿を丸暗記して読んだのだろうが、それにしても「先方が言っていることとまったく論点がちがう話をする」というのは、トンチンカンすぎて失礼なんじゃないか。

「ワシ……そんなこと、ひとことも言ってないんだけどなあ」

と思われてしまうのではないか。

バカと思われてしまうのではないか。

コミュ障と思われてしまうのではないか。

おそらくではあるが、感動とか勇気とかそういった「寝言」をこういう場で言うのは、TPOに合致していないように思う。

「復興なら、数々の地獄から確実に這い上がってきた我々日本に任せとけ!」ぐらいなことを言ったほうが、まだカッコよかった気がする。

 

戦争の映像を観るたびに、あの阪神大震災を思い出す。

ぼくも被災者で、倒壊した建物だけでなくあちこちで流血のあとや死体を見た。

阪神大震災では、ほんの一瞬〜1週間で、5000人〜6000人のひとが死んだそうだ。

ほんの数秒で、64万棟が倒壊した。

いっぽうウクライナ危機では「1ヶ月以上かかって」死者は1000〜数千人である。

どれだけ強力な武器を開発したところで、天災のパワーには到底まったく及んでいないのである。

「戦力」なんて、天災に比べたらむちゃくちゃショボいのである。

 

なにをやっとるんじゃあ。

「一瞬で」数十億の人命すら奪えるパワーを持つ地球のうえで、ちまちまと自作のショボい花火でドンパチやって、ちょっとづつお互いに殺し合うとか、なにをやっとるんだろうなあ。

「一瞬で」数万棟の建造物を完全崩壊させることができるパワーを持つ地球のうえで、ショボい道具であちこち壊しまわって、またじぶんたちで建て直すとか、なにをやっとるんじゃあ。

そりゃあまあ、いろいろと都合はあるのかもしれないが、なんじゃその「都合」。

へんな都合!

 

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