ぼくが抱えているストレスとは、なんなんだろうか。
そんなことを考えてみると、ストレスというのは結局「意識が所属する世界」に完全に依存している、ということに気がつきました。
所属というと、どの会社に所属しているか、どこに住んでいるか、ということがまず思い浮かびます。
もちろんこれも関係してきますが、そんなのよりもっと強く関与しているのは「意識」だったんですね。
意識が所属している世界。
たとえば会社の上司がストレスである、としたときに、その上司を張り倒したりマンキンで喧嘩ができない理由は、意識が「会社」に所属しているからです。
クビになったらまずい、給料が下がったらまずい、明日から毎日顔を合わせるのに、歪み合っていたのでは面倒くさい、そんな気持ちがあるから、無茶な上司のオーダーにも答えなければなりません。
しかしもし意識が「会社」になく、クビになることも、給料が下がることも全く気にしないのであれば、小うるさい上司の文句にも、
「やかましい。だまれ。」
と、なんの躊躇もなく言えます。
「なんだと! やる気がないなら、会社やめろ!」
とか言われても、
「いいですよ。いますぐ、辞表を書きましょうか。」
といえる。
「会社につとめていないと収入がなくなるので、生きていけない」という世界観を持っているからこそ、二の足を踏むのですよね。
そして、我慢する。
しかしどう考えても、会社に所属していないと「生きていけない」わけではないのですよね。
個人事業主や、社長さんなんかは、どうなるんだ。
何らかの会社に所属していたほうが、なにかと経済的に有利なことが多い、というだけの話です。
しかしその「有利」が、ストレスで心身を壊してしまうことのリスクを凌駕できるものなのかどうか。
一寸先は闇とも言うし、「会社づとめの有利」がいかほどに確実性があるものなのかどうか、こればっかりは誰にもわかりません。
じぶんが所属している団体なり組織なりに、意識までもが所属したときに、「理不尽を耐える」という行動が生まれるのだと思います。
組織に所属してはいるものの、意識そのものはほとんど所属していない、という人もいます。
仕事は怒られない程度に、てきとうにやる。
意識のほとんどは趣味やライフワークなど、そっちのほうに所属してしまっている。
そんな人は、ストレスが少ないんだそうです。
会社で起こるゴタゴタは、正直いって「右から左」なのですよね。気にしてない。
最後の最後にどうしようもなくなったら、スパっとやめちまう腹まで持ってる。
そういうひとは社内よりも社外に友人が多く、いがいと人脈が広かったりします。
もし実際にやめるとなっても、なんだかんだで、行き先が見つかりやすい。
つまり、意識の所属対象が狭ければ狭いほど、余裕がなくなって、誤謬をゆるさぬ状況になっていくのだと思います。
つねに会社や上司、仕事の文句を言っているひとは、言い方を変えれば、所属している世界が狭い。
意識の所属対象を、ぐんぐん広げていけば良いのではないか。
そんなことを、ふと思ったのですよね。
そうすれば、細かいことでウジウジ言わないようになるのではないか。
いろんなことを、鬱々と抑圧しないようになるのではないか。
自由に生きていっても、なにも恐れずにすむのではないか。
所属対象を究極に拡大したら、それは結局「宇宙」になるのだろうな、と思います。
家とか会社とか学校とか町とか市とか県とか国とか地球とかをぶっ超えて、宇宙にいたる。
そこに行くと、もうありとあらゆるもののスケールがデカすぎて、日々の悩みなど、ハナクソ以下のような気がしてくることもあります。
禅では「有は時なり」といって、ヒトもイヌも木も竹も石も山も、ありとあらゆる「存在」は「時」とまったく同じである、と考えるそうです。
そしてこの考え方は、近代物理学の見地からもただしい、とされているそうです。
ビッグバン以降の宇宙は「構造化された宇宙」とされ、時間は物質があってはじめて生じる概念である。
クォークやレプトンなどの物質やエネルギー現象の変化を媒介として、時空間が定められるそうです。
そもそも宇宙とは「宇=空間」「宙=時間」で、宇宙とは時空そのもを指す。
だからぼくたちがいま生きているこの宇宙は「138億年の時空」なのでした。
創業180年とか、創立100周年とか、建国2600年とか。
「じゃかましいわ」
ですよねえ。
いくら歴史ある組織といえども「138億年の時空」にまさる組織はありえません。
そしてぼくたちは、この138億年の時空に、いままさに、確実に、現実に所属しているのであります。
創業180年の老舗企業に所属するためには競争が必要ですが、138億年の時空に所属するためには、「いま、ここ」にいるだけで、もうすでに達成されています。
そしてぼくたちを構成する物質、これはすべて「星の死骸」です。
恒星が死を迎えると、水素原子が膨大なエネルギーと重力で圧縮され原子融合し、炭素や窒素、酸素など、生命体を構成する物質を生み出します。
星が死んで爆発すると、これら生命のもとになる物質は宇宙空間をただよい、それが地球となり、そのうえで生命が誕生する。
つまりぼくたちは、詩的な表現ではなく、実際的に「星の子」なのですね。
時間は厳密には歪んだり縮んだりはするものの、原則的には過去から未来へ進むものでもあります。
だからぼくたちは、いま「138億年の時空」の切っ先にいる、ということになります。
スマホやネットを使えたら最先端じゃけんね、パソコンを使える俺様は情報強者だ、最新のファッションに身を包むアタシってイケてる、とかいろいろいうけれども、この世にいる人間のみならず、あらゆる生き物、あらゆる無機物、とにかくぜんぶぜんぶが「138億年の時空の最先端」に立っている。
という、事実。
もう、どうでもよくね?
って、すこしだけ、思えたりしますね。
死ぬのが怖いのも、病気が怖いのも、138億年の時空ではなく「人間という社会」「私という存在」に意識が所属しているから、というのもあるのかもしれません。
死も、病も、これはしょうがないことだ……仏教では、そう言います。
しかしこれは必ずしも「あきらめる」「覚悟する」という、そういうことではなくて「意識の所属先を変更してしまえ」ということなのかもしれないですね。
138億年の時空に直属すれば、たかだか100年前後のわが肉体的な生命など、ましてやそれを蝕む病気など、いったいそれがなんだ、それがどうしたんだ、という気分にもなれるのかもしれません。
まあ、即座にそうはなれませんけどね。
会社を辞めたり、仕事を失うことでさえもオドオドするような人間が、「138億年の時空に直結する」ためには、まだまだ時間がかかりそうです。
でも、たまにはそういうことを考えてみるのも、いいですね。
いまぼくが怒ったり気分を害したりしていることは、宇宙全体からすれば無に等しい事象である、とか。
ぼくがいちばん大切にしなければならないのは、仕事や友達や家族やいのちや愛などではなく、この時空そのものへの帰属意識なのかもしれないな、とか。
そんなことを思うだけでも、なんかおおきな気分になれるような気がします。
とか言いながら、いまから仕事をする俺。
これはこれで、いいのだ。
たまには、宇宙のはなしをしよう。