たまに起こるこのソワソワは、最近その強度が落ちてきています。
なることはなるが、発作に至るほどではなく、また収まる時間も短くなってきています。
「原因はこれじゃないか」
そういうふうに、つい「唯一の」あるいは「最大の」原因を求めがちですが、じつはいくつかのトリガーが複数あったのではないか、と最近は感じます。
ひとつは、ハウスダスト等のアレルギーです。
やはり炎症が強くなると、パニック発作や、それに似た不快感、息苦しさなどが強く出てしまいます。
ぼくは8歳のころ、「なちぐろ」というアメをノドにつまらせて死にかけたことがあります。
このときは、冗談抜きで死ぬ、と覚悟しました。
七転八倒して苦しんでいましたが案外冷静なところもあって「そうか、人間というのはこのようにして死んでいくものなのか」などと妙に第三者的に自分を眺めているぼくもいました。
しかしその恐怖は絶大で、たぶんこれがトラウマになっていて、息苦しさを感じるとパニック発作になりやすい、というのはあるのだと思います。
デスクワークの連続などで単純に酸欠状態になったり、血行不良で脳の血流が低下したり、いやなニオイで息を止めがちになったりなど、呼吸にまつわるところで抑止力が働くとトラウマを刺激するのかもしれないです。
だからハウスダストについても、アレルギー反応そのものというよりは、アレルギー反応がもたらす呼吸困難の感覚が、焦燥感をもたらすのでは、と想像します。
もうひとつは、アルコールです。
ぼくは以前、誰もが驚くほどの酒豪でした。
家系的に大酒飲みなので、もともとアルコール分解能力が高いのだと思います。
しかしこれが災いして、かなりの量の酒を毎日飲んでいました。
酒に強いので奇行に走ることはなく、病院に行ってもアルコール依存症であるとは一回も診断されたことはありませんでした。
しかしどうも、やはり依存症の傾向はあったのだと思います。
飲まないと眠れない、飲まないと食欲がわかない、飲まないと性欲がわかない、飲まないと便秘になる、飲まないと楽しくないなど、奇行こそありませんでしたが、自律神経系はしっかりと依存をしていたように思います。
しかしそんな酒も、今年の春に卒業をしました。
医者にも誰にも止められたわけでもなく、飲めなくなったわけでもないのに、なぜか「ぴたっ」と酒が止まったのです。
飲んでもよいが、飲まなくても良い。
飲まなくて良いのなら、飲まなくてよいだろうという、なんていうか、よくわからない論法で止まってしまったのでした。
だから、こんなぼくについては、お医者さんも、誰もがみんな「そうやってやめられるのなら、依存症ではない」というわけです。
確かに、いわゆる典型的なアルコール依存症ではなかったのだと思います。
意識やこころは依存していなかったけど、たぶん「神経」が依存していたんじゃないか、と思うのです。
というのも、あの例のパニック発作が出たときに「手をわなわなさせる」と、ふしぎに症状が少しやわらくのです。
いわゆるアル中のひとがよくなる「振戦」というやつの真似事をするんです。
実際には振戦なんか出ていないのですが、それをするとなんだか落ち着くのです。
非常に弱い振戦衝動があるように、感じるのですよね。
もう自分の意思ではコントロールできないほどの強力な振戦ではないのですが、微妙に振戦したがっている、というような。
貧乏ゆすりをしたり、手をふるわせたり、アルコール依存症の人の退薬症状の「まね」をすると、少し落ち着く。
アルコールをやめると、退薬症状は2年間も続く場合があるそうです。
アルコールはドーパミンに「なりすます」ことができるのだそうです。
これがアルコールの便利な面であるいっぽう、とてもコワイ面でもあります。
ほんとうは、あの「うれしい・たのしい・きもちいい」を司るドーパミンは、出ていない。
アルコールを飲むと、ほんとうは出ていないのに、なりすましのドーパミンが大量に出るのです。
継続的にこれを続けていくと、「なりすましたドーパミン依存症」になってしまう。
しかし脳はなりすましだろうがなんだろうが、それをドーパミンだと思っている。
お酒が切れたとき、どうやら「ドーパミンがなくなった」と勘違いするようなのですね。
そこで異様な恐怖や不安感、振戦や妄想といった異常状態に陥ってしまう。
お酒を飲むと、偽ドーパミンが出てきて落ち着く。
アルコール依存症というのは、偽ドーパミン依存ともいえるのかもしれません。
ぼくのパニック発作も、これと似たメカニズムなんじゃないかな、と感じることがあるんですよね。
デスクワークでじっとして動かないときや、狭いところで無言で作業をしていたりすると、異様な不安感に襲われることがあります。
最近はお酒は一切飲んでいませんから、ほんとうにドーパミンが切れかけているんだと思います。
そこで、すこし激しめの運動をしたり「何か新しい健康法」を試したりすると、俄然効果を発揮します。
ドーパミンが出るから。
いろいろやったけど最初の方だけすごく効いて、だんだん効果がなくなってくる。
だから「治す方法なんかないんだ」なんて自暴自棄になったこともありました。
しかしこれが「偽ドーパミン依存」だとしたら、すこし説明がつくのです。
激しめの運動や達成感のあること、なにか新しいことをはじめると、本物のドーパミンが出ます。
そもそもが偽ドーパミン依存だったとして、偽だろうが真だろうが、そんなことは脳にはまったく関係ありません。
脳にしてみたら「待ってました、これこれ」てなもんです。
せっかくお酒をやめて偽ドーパミンから距離を置いたのに、新しい刺激によって、またドーパミンを使っている。
結局は「依存の再定義」をしていただけなのかもしれないです。
そこで、達成感や意味、目的のあまりないこと —— 坐禅や掃除など —— を習慣化していくと、徐々にドーパミン依存が治ってくるような気がするのです。
ドーパミンによる快楽ではなく、セロトニンのほうの快楽に移行していく。
セロトニンによる快楽は、正直いって残念ながら「つまらん」です。とても地味。
せいぜいが「心地よい」「快適」てなもんで、狂乱、狂騒、興奮、熱狂、充実、熱血、情熱、エンジョイ、楽しいといった、わかりやすい「快楽」とは程遠いです。
しかしドーパミンから距離を置く生活を続けていくと、そのうちドーパミンがそれほどなくても、あまり問題にならなくなるようなのです。
たいして面白いことがなくても、それなりに幸福である、と感じるようになる。
そうなったら「ドーパミンあるいは偽ドーパミン依存からの脱却」ということになるのだと思います。
最近すこしづつ、そうなってきている感じがします。
それと同時に、あの強烈なソワソワや焦燥感といったものが、その影響力を喪失しつつあります。
徐々に、ちからを失ってきている。
あの異常なほどの焦燥感や不安感に襲われはじめたのは、今年の3月下旬ぐらいです。
いままでそれほど頻発していなかったパニック発作も連発するようになりました。
しかし思い返せば、ぼくがお酒を完全に断ったのは、3月の上旬でした。
「退薬症状」と考えても、タイミング的にしっかり合致するのです。
アルコールによる偽ドーパミン依存、ハウスダスト、死にかけた幼少期のトラウマ。
このあたりが「みつどもえ」になって、こんがらがっていたような気がします。
なかでも最大の楔は、ドーパミン依存だったかもしれません。
つらいこと、いやなことを、酒でごまかしてきました。
お酒ですべてをオブラートに包んでしまっていたのです。
その酒を飲まなくなって、ぼくはこの世に久々に「ナマで」接することになりました。
だから、痛い。
今年は「変化の年」なんだと思います。
酒からも、偽ドーパミンらも、本物のドーパミンからも、間合いを取ろうとしています。
それも、無意識に。
きっとそろそろ、そうしておかないといけない時期だったのでしょう。
この流れには、どうも逆らえそうにない。
逆らえないから、流れていこうと思います。