あっ。
そうか。
パニック障害になっていらい、10年以上なんかいろいろとややこしいことを考えていたけれども、結局はそういうことなんか。
「無邪気」が消えてる。
パニック障害って、思春期を迎えたぐらいの人にも多いそうなんですよね。
ちょうどオトナになろうとしているあたり。
なんていうか、こういう病気になる人って、素直なくせに邪気が多いっていう人がなるような気がするんだよなあ。
基本、ええやつなんですよね。
でも、ええやつがゆえに、我慢強かったり愛想良かったり、自己犠牲的なこともあったりして、いがいとこころには「邪気」が溜まってる。
この邪気がどばあーっと噴出するのが、パニック発作なんじゃないか。
もともとあんまり「邪気のうつわ」が大きくないような気がするんだなあ。
邪気に弱い、というか。
逆にいえば、無邪気でないとどうもうまいこと回らない体質なんじゃないか。
イヌとか見ていて思うんですけど、ほんとにあいつらって、無邪気なんだよなあ。
メシ食わして散歩しとけば、全然怒らないの。
間違えてうっかり足踏んじゃっても、「ぎゃんっ!」とは言うけれど、べつに怒らないんだよなあ。
毎日おんなじメシ食わせてるのに、毎回尻尾振ってよろこぶ。
毎日おんなじルートで散歩にいくのに、リードを持っていったら飛び上がってよろこぶ。
毎日おんなじ水道の水なのに、うれしそうに飲む。
うちの犬は、もう12歳なので、人間で言えばもうだいぶオジーチャンなんですけどね。
それでもいまだに、無邪気です。
12年間、おなじことばかりしてるのに、毎回おなじようによろこぶ。
イヌがあんなに毎日楽しそうにしているのは「無邪気」だからだと思います。
子どもも基本的にみんな楽しそうだけど、これも無邪気だからでしょう。
毎日を楽しむためには、無邪気は必須条件なのかもしれない。
自律神経を整えるためには、朝早く起きて朝日を浴び、セロトニンを出さないといけない、なんてことをよく言います。
ではどうして、朝日を浴びるとセロトニンが出るのか?
医学的にはいろんな理屈をぐちゃぐちゃいうけど、たぶんようするに「気持ちいい」からなんじゃないでしょうか。
よく晴れた日の、うまれたばかりの、きょうの朝日。
気持ちいいから、セロトニンが出るんじゃないか。
セロトニンが出るから気持ちいいんじゃなくて、気持ちいいからセロトニンが出るんじゃないか。
なのにもう、ぼくたちはたまに「朝日を気持ちいい」とは感じなくなってしまったんですよね。
ああ今から仕事かあ、そうだメシ作らないと、洗濯も溜まってたなあ、掃除もしないとなあ。
今日の仕事は、なんだったっけ・・・。
朝起きた瞬間に、ねむけまなこで「ねばならぬ」をリストアップしていく。
「きょうのおひさま」なんかもう関係なくなって、「いまからやるここと」ばっかり考えてる。
寝不足だったりすると、とうとうおひさまを「うっとおしい」とさえ思い始めます。
なんじゃこりゃ。
セロトニンがどうとか、有酸素運動がどうとか、そんなもん、ただの屁理屈じゃねえの?
そうじゃなくて、「無邪気さを失ってしまった」から、おかしくなってるんじゃないのか。
イヌでさえ、毎朝よろこぶのです。
どうして人間が、とくに大人たちは、それができないのか。
責任。
ねばならぬ。
ルール。
先のこと。
目標。
夢。
欲望。
勝利。
愛想。
常識。
見栄。
疑惑。
恨み。
そう、こういうの全部「邪気」なんだよなあ!
こういうのをいっぱいっぱい抱え込んでいるから、もう「きょうのあさひ」なんか、どうだってよくなってしまったんだ。
じぶんで邪気をいっぱい作り出しているから、無邪気でなくなったんだ。
「邪気を受ける」とか言うひとがいます。
ぼくは、これはちがうと思う。
ほとんどの邪気は外から来るんじゃなくて、自前で生み出していると思う。
ごみのような、しょうもない知識や理屈をいっぱいあたまに詰め込んで、ものごとをそのごみみたいなものをつかって見たり感じたり、評価したりする。
そのごみが、邪気そのものなんだ。
知識や、りくつが、邪気なんだ。
断捨離するなら、モノよりも知識とか理屈を断捨離しないといけないですね。
「断捨離に関する知識」も、りっぱな邪気だもの。
そういうのをいっぱい溜め込んでいたら、たとえ家の中がからっぽでも、こころのなかは邪気だらけなんだよなあ。
とくになんにもしていないひととき。
とくになんにもかんがえていないひととき。
とくになんにもみていないひととき。
とくになんにもきいていないひととき。
「からっぽ」でこころをみたせば、邪気は入ってこないんだと思います。
こころには、からっぽという詰め物が、いちばん似合ってる。
へんなものを入れるから、なかでくさって、邪気になるんだなあ。
邪気の居場所がなくなるように、こころを「空白」で埋めてみよう。