星は待つもの

人間というのは変われば変わるもので、坐禅をするようになってからあまり「楽しいことを欲しがる」ことがなくなってきました。

ことばで表現するのがけっこう難しいのですが、べつに楽しいことに拒否感を持つようになったとか、楽しいという気持ちを持てなくなったとか、そういうウツっぽいアレとはちがいます。

面白いこと、楽しことがなかったらなかったで、べつにいいかな。

あったらあったで、それもいいな、という感じです。

 

たとえばいままでは夜寝る前の自由時間に、今日はどんな映画を見ようか、どんな本を読もうか、ブログを書こうか、さて何をしようかと、いろいろ考えたり、したりしていました。

いまでもそれは、あります。

しかし坐禅を20分ほどすると、いままで考えていた「あれをしよう、これをしなくちゃ」というのが、うそみたいに消えてしまうのです。

やる気を喪失してしまうというのではありませんし、なにもしたくなくなる、というのでもありません。

今する必要がないのであれば、それはべつに、しなくてもいいのではないか。

それよりも今からしっかり眠るほうが良いのではないかと思い、そしてそのままそれができてしまう、という感じです。

 

ぼくにはパニック障害があって、ふとしたときに、とても「死」が怖くなることがあります。

これは特定の条件下で起こるというよりは、慢性的に薄〜くず〜っとある感覚でもあります。

しかし坐禅をしている最中には、ふとそういう心配というか、恐怖をまったく感じない一瞬というのがあるのです。

もし万が一、ほんとうに今死ぬとしても、それはそれで、べつに良いかもしれない。

しつこいですが、べつに生きることを放棄したとか、あきらめてしまったとか、自暴自棄になっているとか、そういうのではないのです。

ほんとうに表現が難しいのですが、なんかそういう「一瞬」がある。

当然この一瞬はいつまでも続くわけではなくて、一種の特異点のように、ポツンとあわらわれるのです。

 

例えるなら、真っ黒な夜空にひとつだけ星が出ている、というような。

その一点だけは、死ぬとか怖いとか心配とか、そんなのとは縁のない、次元の外の世界。

日によってその「星」は、すこしだけ増えたりすることもあります。

 

その「星」は、坐禅を続ければ続けるほど増えるかというと、そういうことでもないのです。

まったく出てこない日もあれば、無数に出てくる場合もある。

出そうと思って出るものでもない。

そしてこれはまた体調や精神状態、日中の活動にもあまり関係がない。

ものすごく体調がわるく、気が散って集中ができていないときでも、出るときは出る。

よくわからないのです。

明滅するその一点は、どんな因果で出てくるのか、よくわからない。

ただし、日を追うことに「出る日」が多くなってくるような気は、しないでもないです。

 

その「星」の世界は、とても居心地が良いのです。

恐怖や心配というものがなく、とくに拘泥しているものがなければ、生きていくということは本質的に幸福に満ちたあふれたものであるということを感じます。

なんか、ラリっているのかもしれませんねえ。

なにかがアタマのなかで「出ている」のでしょうか。

しかしこの快感は、そんなに魅惑的なものでも、強いものでもないです。

この快楽のために坐禅をしなければ、ということにもならない。

ジョギングなんかでは、あきらかにそういうのがあるのですけどね。

走ったときのあの快感がほしくて、無理してでも走ろうと思うことがある。

でも坐禅のばあいは、そんな強いラリリ感はない。

よく、わからないのです。

よくわからないけど、その「星」はあるのです。

この一瞬がもっと増えていけば、もっと気持ちよくなるのかもしれません。

でもなぜか、出そう、増やそうと思っても、出ないんだなあ。

 

あれだ、ほんとうに、星空とよく似ていますね。

夜空に向かって、星よ、いでよ、増えよと叫んでも、出たり増えたりはしないのです。

雲よ晴れよと叫んでも、月よ消えよと願っても、どうしようもないです。

できることは「待つ」ことだけ。

この「星」も、待つしかないのかもしれませんね。

そしてこの「星」は、空の星と同じで、見えてなくても、見えないだけで、いつでもそこに「ある」。

 

 

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