われを、なだめよ

「病気なので」っていう「自己の特殊性」に立脚せず、一般論としてパニック発作などへの対処を考えてみる。

あれは結局どういうことなのかというと、つまりはようするに「昂ぶっている」っていうことになるのだと思います。

 

ひじょうに激昂した人に対してどのようなことをすれば効果があり、あるいは逆効果になるだろうか。

ということを考えてみると、結局は「肯定」っていうことがキーなのだと思いました。

 

たとえばクレーマーみたいな人がやってきて、血相を変えてぎゃあぎゃあわめいているとする。

前提としては、そこに悪意はないとする。

そんな場合、たとえば、

「まあ、落ちついてくださいよ。ゆっくりいきましょう」

なんてことを言うと、どうなるか。

 

そんなもん、まさに「火に油」なのですよね。

激昂している人に対して「落ち着け」というのは「最も言ってはならない」ことばのひとつですよね。

そんなことを提案しようものなら、

「なにを? きさま、この状況で落ち着けっていうのか! どういう意味だ!」

「おまえになにがわかるんだ!」

なんていうことになって、あらぬとばっちりを受けるハメになる。

 

ではこういうとき、どうするのがいいか。

いろいろあるけれども、

「どうしましたか。話を聞かせてください」

というのが、いちばん入りやすいですね。

つまり、なぜ怒っているのか、激昂しているのか教えてほしい。

そしてここからが肝心なのですが、相手がいろいろと文句を言うことに対して、

「そりゃああなた、怒るのはあたりまえですよ!」

と「肯定」をすることなんですよね。

ここで間違っても、

「大したことじゃあ、ないじゃないですか。そんなことでいちいち怒らなくても……」

などと言ってしまうと、それはもう、たいへんなことになります。

ケンカだ。

 

激昂している人対してまず必要なのは、

「肯定」「同意」

なのでありますね。

これを誤って話のテーマを「真理」にヴェクトル変換をし、「ようするに、おまえもわるい」的な喧嘩両成敗論みたいなことを申し出たり、

あるいは「どのように解決すべきか」「要望を整理しよう」などという悠長な方法論にヴェクトル変換しようとすると、だいたいのばあい、事態は悪化する。

「てめえ! おまえも俺の敵か!」

みたくなる。

 

自分自身に対しても、一緒なんじゃないのか。

神経が極度に興奮し、激昂し、アワワワワ、どどどどどうしようどしよう、ぎゃああ、となっているとき、ついやってしまうのが

「落ち着こう!」

っていうトライなのですよね。

深呼吸するとか、楽しいことを考えるとか、とにかく落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせる。

おかしいんだよなあ。

とても激昂している他人に対して「落ち着け」っていう提案は最悪のタブーだとよく知っているくせに、自分に対してはなぜか突如その禁忌を平気のへいざで犯してしまう。

 

いま真っ先に必要なのは「肯定」「同意」なのではないか。

むろんそのような状態に陥ることには何らかの原因があるはずなので、それを整理・改善していく努力は必要なのかもしれない。

でもそれはあくまで「あとで」「別途」「随時」なのですよね。

というか、激昂している人によくあることで、結局は原因追求と改善はあまり必要ではなかった、というのもあります。

肯定してくれて同意してくれたら、いつのまにか本質的な改善なんかどうでもよくなって、すっかり平穏を取り戻してニコニコが戻るというのも、よくある話です。

 

あんがいこれを見落としているな、と思ったのです。

自分自身に原因があると仮定し、その問題点をいっしょうけんめいに探します。

そしてその問題点を解消すれば病気は治ると確信し、ありとあらゆる手法を試みる。

でも実際のところ、そのような努力はあまり功を奏しないようで、多くの場合不毛な努力になる。

神経が逆だっているのなら、まずは「なだめ」なければならない。

なだめ、あやすのにまず真っ先に必要なのはじつは「肯定」なのでした。

 

あれがわるい、これがわるい。

あれをしたから、こうなった。

これがわるいから、こうなった。

そんなふうな一見「賢そうな」原因追求は、一周ぐるっとまわって「いちばんアホ」な方法論に堕してしまうものなのかもしれません。

原因追求というのは翻訳すれば「自分に喧嘩を売っている」ということですから、火に油となって逆に炎上するのは当然といえば当然です。

 

だから結局どうすればいいのかというと、それはあまりよくわからないけど、たぶん普段から「われをなだめる」ことを意識することなのかなと思ったりします。

責任感だか上昇志向だかなんだかしらないが、ストイックになってつねに自分を攻撃するようなことをばかりしているから、イザというときにも同じような反応をしてしまうんだと思います。

がんばるまえに、することがあるのだ。

たとえば子どもを「がんばれる子」に育てるためには、親が厳しくばっかりしていてはむしろ逆効果なんだそうです。

スパルタを押し付けるよりも、その子の「行動への肯定」をたくさんしてあげるほうが、よくがんばるようになるのだそうです。

 

てめえも一緒だっつうの。

同じ人間だっつうの。

あれがわるい、これがわるいと過去現在未来にクレームばかりつけるより、いまやっていることについて「よし」とする習慣なのでしょうね。

認められるからこそ、人は安心するそうです。

自分で自分を認められない人は一見努力家に見えるけど、こころのなかは砂漠のようです。

自分で自分を認められないのは、どこかに「正解」があるという妄想からうまれる。

正解なんか、ないのになあ。

正解がないということは、自分のしていることは、どのようなことであっても正解だということです。

 

 

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