「闘争心」を、もっと大切にしよう。

ぼくはどうも「闘争心」ということを、誤って解釈していたように思います。

ちゃんと師につかず、独学で中途半端に仏教なんかを勉強したせいかもしれません。

結果、じぶんに都合がいいように解釈してしまっているところがあるな、と気が付きました。

 

まず闘争心ということを、「怒り」と混同してしまっていたと思うのです。

また「勝ちたい」というのは煩悩の元であるから、それは余計な欲として排除したほうがいいのではないか、とも思っていました。

そういうふうに解釈をしたのは、なんのことはない、ボク自身に気力が欠けていて、競争するのがイヤだから、自分に都合がいいように解釈をしていたのかもしれないです。

冷静になってよくよく経典などを読んでみたら「闘争心をなくしてしまえ」とは、どこにも書いていない。

よけいな欲をできるだけ減らせということは書いてあるけれど、闘争心=よけいな欲、とは必ずしも定義されていない。

むしろ「勇猛果敢に邁進せよ」と書いてある。

 

そういえば伝統的な仏教の修行を見てみると、強い闘争心が必要なものばかりなのです。

人と勝負をして勝つというのではないけれど、「自分自身に勝つ」ことが絶対に必要な、とてもとても厳しいものばかりです。

座禅は楽そうに見えるけど「禅」全体でいけば「作務」というとても厳しい肉体労働も課されます。

そしてこの作務は、座禅よりも大切だとされています。

中でも曹洞宗の修行は「気が狂うほど」辛い、とも言われているようです。

密教系の修行では、冗談抜きで死んでもおかしくないようなことをしますね。

冬に滝に打たれたり、真夏に炎の眼の前で何時間も座っていたり、とくに修験系は聞くだけで気分が悪くなるぐらい怖いやつがあります。

日蓮宗の修行も、密教系と同等か、それ以上に厳しいそうです。

食事もろくすっぽ食わされず、長期間、厳寒の中、裸同然で木剣修行というのを行い、1日に何時間も板の間に正座して大音声で読経をし、あかぎれと痔で「道場が血まみれになる」ぐらいなんだそうです。

日本に限らず、チベットも、タイやミャンマーも、まじめなお坊さんというのは、ものすごく過酷な修行をしています。

小乗大乗問わず、仏教というのは、とても厳しい。

こんなもの、闘争心や気力のない人なら、ぜったいにできないのです。

 

ある意味、仏教をナメていたんだと思うのです。

癒やしとか愛とかやさしさとか、そういう側面「だけ」を見てしまっていた。

そして、そういうやさしい面だけを本質だと勝手に定義し、それだけを選択的にやっておけば良いというような、とても自己都合的な解釈で終わっていたのです。

そんな単純なものじゃない。

やさしさは仏教の本質ではなくて、ただの一側面にすぎないんだ。

 

愛と闘争心は、同根である。

 

ぼくはほんとうに、そう思うのです。

闘争心や気力が乏しい人は、じつは愛も乏しい。

ダライ・ラマさんは一見「愛」だけをエネルギーにしているように見えるけれども、ずっとチベット自治権の獲得のために精力的に闘っています。

闘っているのです。

ダライ・ラマさんの、あの人懐こいやさしい笑顔と言葉に触れて「やさしければいいんだ」というのは、すこし違うと思う。

チベット仏教のお坊さんの話を聞いたことがあるけれど、それはもう、常軌を逸したような厳しい修行を、ガキの頃からやらされるんだそうです。

体育会なんかメじゃないです。日本の密教系より、さらに厳しい。

お経の文言を書き間違えたら両手を縛られて天井からまる1日ぶら下げられるとか、ちょっと待てそれ児童虐待では、というようなことは、日常茶飯事なんだそうです。

メシももちろん肉抜き、午後からは一切食えません。

そういう厳しい修行を経たひとだけが、高位のお坊さんになっていく。

あの菩薩様のようなやさしい笑顔は、想像を絶する鍛錬の結果、自然と湧いて出ているものなんだと思います。

それを、なんだ。

「やさしさが、たいせつですよね」

じゃかましいわ。

 

あれだけの重大で、困難な責任を背負い、それでも折れずに邁進するすがたは「闘争心」と言って、良いと思います。

厳しさのかけらもない人に、あんなことができるわけがありません。

厳しさも、闘争心もないものには、自分も他人も、幸福にはできないです。

ヒトから厳しさを抜き取り、闘争心をも抜き取ると、弱くて臆病で、自己中心的で冷酷な存在が残る。

戦う気力こそが生きる力であり、愛の根本エネルギーでもある。

 

だから「つらいこと」に、できるだけ挑もうと思うのです。

もちろん、無理や無謀なことは、もうしないです。ほんとにぼくは、最近弱くなってしまったので。

でも「ああ、いやだなあ」と思うことからは、絶対に逃げずに、やっぱりドツきに行こうと思う。

張り倒しに行こうと思う。

「やさしさと愛」を、逃げ腰の言い訳にするのは、もうやめるんだ。

大きなやさしさと愛を持ちたければ、それと同じ重さの「気迫」が必要なんだ。

材料がないのに、どうしてやさしくなれるのか。

 

闘争心は、よけいな欲なんかじゃない。

怒りでもない。

それは炎で、エネルギーだ。

「ぼく」と「いやなこと」との摩擦熱で、火は起こる。

逃げてばかりいたら、そのうち、火が消えてしまうんだよな。

そしてもう一回火をつけようと思ったら、たいへん手間と時間がかかる。← いまここ

しっかりと火が灯るまで、こすりつづけよう。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です