紳士たるべし

紳士になろう、と思った。

紳士なオッサンになろう、と決心した。

 

パニック障害などというよくわからない病気にやられて、10年ほど苦しみながら生きてきました。

しかしこの病気にかかったことは、あながちデメリットばかりではなかった。

心身ともに健康そして人生もそこそこ順風満帆であれば、人はかえってクズ人間のような精神性を持つ場合がある。

ぼくはそんな人生を歩んでいた頃、パニック障害やウツなどという病気にかかる者は「こころが弱い」と断じていたし、「だらしがない」「根性がない」とさえ考えていた。

とんでもない話である。

自分なんかよりも何十倍も強い精神力と才能を持つ人でさえ、条件が整えばそのような病気にかかることはある。

その人の精神の脆弱性と、こころの病とは、必ずしも正比例するものではないのであった。

むしろ、精神的に強靭である者こそが、そのような病にかかりやすいという側面さえある。

しかるに「こころが弱いからそうなるんだ」などという考えは甚だしく認識を間違えており、またそういった人を卑下するのは弱者や困窮者を一笑に付すのと同様、思いやりが足らず自己中心的、すなわち人間的に卑賤である。

ひとことでいえば、ぼくは人間的にクズであった。

しかしそのような病を経験することによって「わが人生とはなにか」という哲学的なことにも思いを致すようになり、また想像以上にこころの病に悩む人の数が多いことを知り、彼らは等しく強い苦しみを抱えており、また程度の差はあるものの自身の存在意義について悩むという哲学的領域の思考を日々重ねているのであった。

悩みなきものと、悩みあるものとでは、後者のほうが存在意義が高いところがある。

なぜならば、人とは悩む生き物であるから、その機能を十分に全うしているからである。

 

そのような悩みと寝食を共にする日々を送るうち「禅」という思想に触れ、毎日毎日座禅と掃除に明け暮れる日々を過ごしていくと、ぼくはすこしだけ、目がさめた。

むろん悟りを得たというような高邁な境地などではなく「ぼくは基本的なことが、なんにもできていなかった」という程度のことであって、せいぜい「脚下照顧の重要性に気がついた」という、入門以前の幼稚な発見である。

しかしこの幼稚な発見は、ぼく自身の人生を根本的に変える可能性を持っていることを強く感じた。

 

紳士たるべし。

 

ぼくは個人的に、禅という思想はこのことを一部述べているように感じる。

そして「紳士である」ということは、ぼくが抱えていたさまざまな矛盾を一挙に解決してくれる、ある種の「状態」を示すものであった。

 

たとえば市井のヨガのある流派では、髭も剃らず蓬髪で、服装も「ゆるやかであること」を主としており、ひじょうにだらしない格好をしている場合がある。

「自由」であるとか、「執着を離れる」「自然」ということを突き詰めれば、見た目などどうでも良いという話になり、また髭や髪の毛を切るという行為は自然に反するということになる。

なかにはこの「自然」ということを拡大解釈してなのか、たいへんに不潔にしている人もいる。

理屈としては、わかる。

わかるが、しかしぼくにはこの考えに対して非常に違和感があった。

なぜならば、禅では逆に髭や髪の毛は剃り上げてしまうからだ。

それだけでなく、禅では「清潔」ということを非常に重要視し、「ちゃんとした格好をする」ということにも、口うるさいのである。本来座禅は作務衣やトレーニングジャージで行うなどもってのほかであって、きちんと身支度を整えて「正装」で行うべしと言われている。

現代でいえば、座禅というのは本来スーツ姿で行うべきものなのである。

さきほどの、天衣無縫の蓬髪流ヨギたちは、おのがヨガ思想と禅を「同一である」とすることが多い。

ヨガも、禅も、根本的には同じである、とするのである。

ここに、ぼくは大いなる疑問を感じるのである。

確かに、思想の「一部」は共通している(あるいは似ている)ところはあるのであろうが、その実際の行動様式がここまで正反対となれば、この両者はもはや「まったく別物である」とすべきなのではないか。

かたや清潔と規律と身だしなみを強く重視し、かたや「そのようなものは無用」と断ずるのである。

ぼくはこの矛盾がまったく理解できず、悩み続けた。

 

しかし、ある「分類」の方法で、この疑問は一掃され、かつ整理がつくのであった。

それは「紳士的かどうか」ということである。

 

・他者(とくに弱者)への思いやりを持て

・服装は華美ではないが清潔で威儀のあるものとし、とくに足元は最も清潔にせよ

・つねに清潔に、じぶんも、身の回りも、きれいにしておけ

・礼儀・礼節・マナーを守れ

・常識と客観性を常に持て

・自己を律せよ

・高慢・自慢はするべからず

・腹を据えて、姿勢を正して、常に堂々としていろ

・些細なことに臆するな、こだわるな

・小賢しい浅知恵は捨てろ

・おのれを含むすべての人に敬意を持ち、信じよ

・我欲に生きるな

・ひとの悪口をいうな

・美しい所作をこころがけよ

 

つまり、紳士である。

スーツを着れば紳士というわけでははないのと同様、座禅や瞑想をすることが禅なのではなく、「生活規範を守ってこその禅」であるらしい。

こうしてみると「禅は非常に紳士的である」といえる。

 

ここで、ヨガなどのさまざまな「禅と近い位相にある思想体系」を、「紳士的・非紳士的」という分類を当てはめることで、ぼくはあたまのなかが、かなりスッキリした。

蓬髪でだらしない格好や周囲になじまない突飛な格好をして、客観的ではない主観的で偏った解釈、独特の思想を主軸とし、現代社会的を否定するような方向性を持つヨガは「非紳士的」。

これは、宗教にもあてはまる。

その教義の正否以前、効く・効かない以前に、「紳士的であるかどうか」という分類をまず行うことで、ごちゃごちゃしていた情報が整理されていき、危険度数さえも図れるのであった。

おおむね「非紳士的なものごと」は、一見とてもユニークで面白く見えるものの、そのじつは非生産的で破壊傾向が強く、危険であることが多いのであった。

そして、必ず破滅をもって灰燼に帰す。

理由は明白、非紳士的であるということは、自己中心的で客観性に乏しく、他者への思いやりが欠如しているからである。

 

紳士たるべし。

 

ヨガだの、チャクラだの、「気」だの、エネルギーだの、禅だの、ニルヴァーナだの、そんなことは、もう、じゃかましいのである。

そんなことを学び試すためには、もっとも重大かつ、基本的な素養がある。

紳士である、ということである。

紳士でないものが学んだこと、身につけたことは、すべてが非紳士的なものになっていく。

紳士が学んだこと、身につけたことは、すべてが紳士的なものになっていく。

どのようなことであっても、まずは「紳士」からスタートせねば、すべてはネジ曲がった方向へすすんでいってしまうのである。

紳士が学んだ格闘術は「ひとをまもる」ものになるが、非紳士が学べば、それは「凶器」となる。

これは勉強でも、仕事でも、商売でも、恋愛でも、人間関係でも、ぜんぶそうだ。

 

紳士になろう、と思った。

紳士なオッサンになろう、と決心した。

紳士であることを、もっとも明快に解説してくれている文章がある。

軍隊の「五訓」である。

 

一、至誠に悖(もと)る勿(な)かりしか
一、言行に恥づる勿かりしか
一、氣力に缺(か)くる勿かりしか
一、努力に憾(うら)み勿かりしか
一、不精に亘る勿かりしか

 

どんなことでも、まずはこれができてからの話であった。

ぼくは、これこそが「現代の脚下照顧」なのではないかと思うときがある。

 

 

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