ぼくのなかにある、このモヤモヤはいったいなんだ?
これについて、気がついたことがあります。
それは結局、創価学会系仏教に対する消化不良だったのではないか、ということです。
幼少のころから母は創価学会員でした。
創価学会には「四箇格言」というのがあって、真言亡国・禅天魔・念仏無間・律国賊といって、他宗を激しく攻撃します。
だからほかのお寺にお参りに行くなどもってのほか、と教えられてきました。
この四箇格言にはないけど、神社への初詣も禁止されていました。
お守りのたぐいも全部禁止です。
年端もいかないころからこれを教え込まれていると、神社や日蓮正宗以外のお寺は「魔窟」のように見えてしまうようになります。
成長するにつけ、当然というか自然にというか、
「なんか、ちがくね?」
と思うようになった。
でも三つ子の魂百までとはよくいったもので、ぼくがこの四箇格言から脱出できたのはなんと40歳を超えてからでした。
ぼくはもともと神社仏閣がとても好きなので、四箇格言があろうとも神社やお寺にはよく遊びにいっていました。
とくに高野山はいちばん好きなお寺でもあるので、何度も行っています。
でもそのたびに、うすーく「真言亡国」という呪縛が毒ヘビのように顔をもたげていました。
損である!
あの風光明媚にして神気あふれる荘厳な大伽藍や、神秘的にしてうつくしい森や木々のすがたが、まっすぐにココロに入ってこない。
「四箇格言」という黒メガネを通して観ると、その神々しさが半減以下になる。
つまり、つまらん!
せっかく時間をかけて高野山の頂上までいったのに、存分に楽しめないのであります。
自己の洗脳を解くべく、いろいろ調べていきました。
そうするとあの四箇格言は、「誤解」によって成立していることがわかったのです。
「真言は男が立たない」
そんなことも言われます。
つまり真言宗の家だと男性の立場が弱くなり女性が強くなってしまい、出世できなくなるというのです。
ほんとうに、日蓮がそんなことを言ったのか。
言うわけ無いじゃんねえ。女人成仏とかも大事にしているのに「男が」みたいなことを言うはずがない。
真言は男が立たないという言葉の裏には、かすかに男女差別の香りがする。
あの天才日蓮が、そんなことは絶対に言わないのではないか。
そして真言宗が誤っているという論拠に、こんなのがあります。
「真言宗は大日如来という架空の仏を祀っている。ニセの仏を祀るなんて、大黒柱がニセモノと同じことだ。だからダメなんだ」
うーむ。
「大日如来が架空」というのは、これは仏教徒としてとても恥ずかしい認識なのではないか。
仏教の究極の目的はどの宗派でも「悟りを得る」ということで、その悟りの境地は「無限の宇宙生命と一体化する」ということだといいます。
しかし凡人には、そんな境地はかんたんに理解できません。
そこで「肉体や物質、時間を超越した根本仏」という方便が必要になった。
お釈迦様は仏様だけれども、人間です。
だから死ぬ。
「死ぬじゃん! 無限じゃないじゃん! だめじゃん! どこが無限の生命なの? なんなの?」
ってなる。
無限の悟りというものを「人間に理解できるように」表現する必要がある。
それがたとえば、大日如来だと思うのです。
なのにこれをして「架空じゃん」なんて言ってしまったら、仏教の根本理念である「悟りの境地」そのものを否定してしまうことにもなる。
またそれが創作なのかどうか、というところだけにガキみたいに論点を絞ってしまったら、「法華経だって創作じゃん」っていう「真実」はどうなってしまうのか。
そのへんに関しては「方便」みたいなことを言うのですけど、自宗の齟齬は方便で他宗の齟齬は誤謬であるというのは、ちょっと病的な感覚といわざるをえません。
そもそもこの世にあるすべての事象は「仮」なのであって、そんな仮のものに執着することは戒められます。だから仏教では仏法僧にさえ執着すべきではないとういうことになる。
「色」の世界、「仮」の世界にいま存在しているのに、「それ架空じゃん」っていうのは、バイキンがバイキンにむかって「うわ、おまえ、きったね!」っていうのと同じになってしまうから、どうにもピンとこないのでありますね。
あと「禅天魔」については、これは明らかなる誤解があるようです。
創価学会や日蓮正宗は、この「禅」のことを曹洞宗、臨済宗、黄檗宗のことだという。
でも日蓮の時代に「禅」というのは「達磨宗」という宗教のことを指していたそうです。
曹洞宗は「禅」という言葉を一切使っていませんでしたし、臨済宗は「禅」ではなく当初密教も学ぶ総合寺院で、禅思想に絞られていくのは江戸時代に入ってから。
黄檗宗はそもそも鎌倉時代にはなかった。
だから当時「禅」というと達磨宗のことで、そもそもこの達磨宗は非常に怪しいところがあって、パチくさかったのだそうです。
経典を読んで「悟った!」と言い張り、中国にじぶんの弟子を送りつけて金品と引き換えに相伝資格を買い取ったというスキャンダルがあって、そもそもほかの宗派から「アイツなにしとんねん」と白い目で観られていたそうです。
そりゃあ真剣な日蓮さんはこれを攻撃するでしょうね。あたりまえだ。
達磨宗はその後、案の定消えてしまいました。
だから四箇格言のうち「禅天魔」についてはもう成就した話なので、現在の創価学会や日蓮正宗がいまだに「禅天魔」を持ち出しているのは、ちょっと強引かもしれません。
また創価学会や日蓮正宗は曹洞宗について「不立文字(文字を重視しない)・教外別伝(真理は経典にあるとは限らない)とかいっちゃってよう、にせものの教義を勝手につくって経典をないがしろにするなんて、ほんとクソじゃん」みたいなことをいう。
しかし曹洞宗の開祖道元さん自身は「不立文字・教外別伝みたいなことをいって経典をないがしろにするようなやつはお坊さんじゃねーよ。ただのハゲじゃ。この、アホンダラが」とすげー戒めている。
つまり、「ものすごい誤解」が「禅天魔」にはあるようなのです。
あと法華経には「懴悔」といって、じぶん自身の行いを反省することはとても大事だ、とあります。
しかし創価学会の人にとても多いのが「絶対に反省をしない」のですよね。
わるいことがあっても「これもきっと良いことにつながる。なぜならば、私は正法を実践しているのだから」と思い込んで、自分自身の行動そのものに原因があるということを一切勘案ないひとが多い。
これはある意味当然で「ウチがいちばん正しいのっ。ほかはみんな、間違ってるのっ!」っていう教義だら、悪いことが起きたときにも「そんなわけはない」ってなってしまう。
だからもう、なにがあっても、頑固に自分の非を認めないのであります。
ハタからみていると、それはむしろつらい生き方なのでは? と思うですが、当の本人がそれで良いというのですから結構ですし、そういった強い気持ちにも良い側面はあると思います。
でも「増上慢」は法華経でも禁止されているから、「なにがなんでも私は間違っていない」みたいな考え方は、ふつうに抵触するんですよね。
でもそれすらも認めないから、これはもう「化膿している」としか見えません。
自信を持つことはすごく大事かもしれないけど、「自分が所属する組織が言っていることで自信を持つ」というのは「自分を」「信じている」のではないと思うんですよね。信じているのは、その教義。
その理論を自分自身で導き出したというのならまだしも、勉強会とかで本読んで「知識として」得た理論なんですよね。
つまり、ひとのフンドシで相撲とってるだけじゃん。
大きな会社に勤めているからワシはエラいんだ、みたいなのと、とてもよく似てる。
ちげーよ。おめー会社の看板振り回してるだけじゃん、えらいのは会社じゃん、みたいな。
そういうのにブレーキをかけるために「増上慢禁止」っていう戒律があるんだと思うんだけど、どうなのかなあ。
こういうふうに解析していくことで、
「あ。ウソだ」
ということにやっと気がついたんですけど、そこからでもなかなか抜け出せないでいました。
三つ子の魂、おそるべし!
毎日座禅をするようになって120日目ぐらいに、
「この世はひとつの、おおきな生命である」
ということについて、なんとなーく、そんな気がしたことがあります。
そこから、仏教の言っていることが、多少理解ができるようになったような気がします。
とくに「大日如来」ということが何を表現しようとしているのか、ということはピンときました。
だからきゅうに、いろんな宗教が言っていることが、すこし消化できるようになった。
で同時に、ぼくは結局創価学会や日蓮正宗の教義に「目隠しをされていた」ということにも気がついたのでした。
ぼくのモヤモヤは、結局これだったのでした。
おかあさんが言っていることなのだから、理解はしたい、でもできない。
ひとつには、経験不足。
ひとつには、誤解。
「えらい人がそう言っているんだから、目を潰してでも従え」っていうことができたなら、悩むことはなかったのだと思います。
でもぼくは、知りたかったのです。
何を言おうとしているのか。どういうことなのか。
最近はすこしだけ、輪郭が見えてきました。
でもこれも勘違いかもしれませんし、間違っているかもしれません。
だからこれじたいも、あまり信じないようにしようと思っています。
そもそも、こんなことはべつに知らなくたっていいこと。
仏教なんか、知らなくたっていい。
仏教の教義を理解したって、幸せになれるわけじゃない。
だいじなのは、元気なこころと、合理的な行動だけですからね。
木の実をとりたいのに座禅を組んでお経を読んでも、とれるわけがありません。
木のあるところに行って、手を伸ばさなければ。