感謝できないのは、無知だから

感謝の念が足りないのは自己中心的だからだとか、我が強いからだとか、欲が強いからだとか、ストレスが多いからだとか、そんなふうに思っていた時期がありました。

でもさいきんは、こう思う。

「無知だからだ」

 

ぼやっと生きていたら、なぜぼやっとできるのか、ということを忘れてしまうんですよね。

そして文句ばっかり言うようになる。

毎日メシが食えるのは、だれのおかげなのか。

それはおれが一生懸命に働いたからじゃねえかばかやろう、と思う。

でも実際には、そうじゃないんですよね。

・農家や酪農のひとが天候にメゲずに育ててくれた

・害虫に負けない品種や効率のいい肥料などを科学者さんが開発してくれた

・水利関係を国や自治体が整備してくれた

・いろんなメーカーさんが農機具を整備してくれた

・収穫した農作物を輸送する自動車やトラックを開発してくれた

・道路を整備してくれた

・小売店というシステムを開発してくれた

・貨幣経済を発明してくれた

ざっと思いつくだけでも、これだけの「お世話」になっている。

 

食べ物だけじゃなく、ほかのことも全部そうです。

こうして生きていられるのはいろんな人や国、自治体などの努力の成果があってこそなのですね。

そしてそれには、膨大な歴史があった。

たくさんの失敗もあった。

その失敗に学び、改善し、良くしていった。

これは「考え方」とかではない。

事実である。

 

なのに。

過去の失敗の犠牲になった人のことは無視しておいて、いま失敗したことには目くじらを立てる人がなんと多いことか。

自分以外のひとが犠牲になるのは良いが、自分はイヤだというのか。

たくさんの失敗の上にいまの利便があるというのに。

その利便のうえにのうのうとあぐらをかいて、人々の手探りの努力をバカにしている。

これは「自己中」などという、そんな甘いことではないと思うのです。

無知なのだ。

 

ぼうっとしているこの時間は、何千人何万人という人々の努力の上に乗っている。

そう考えたら、ふつうに「ありがたい」という気持ちになるはずなのに。

でも、そうは思わない。

だからあの気色の悪い「感謝の気持ちを持ちましょう」とか「ありがとうといいましょう」などという、白痴じみた話がうまれる。

そうすれば運が良くなる、などといって。

まるで気ちがいである。

 

今歩いているそのアスファルトの道路が開発されるまで、どれだけの苦労と失敗があったのか。

いまなんとなく使っているスマホやパソコンが、どのような歴史で、どれだけの数の人々の努力と、どれほどの高等な数理があって生まれたのか。

そもそもデンキというものがこれだけ普通に使えることに、どれだけの技術革新が必要であったか。

ガスや水道を引くことに、じつはどれほどの高等な技術が使われているか。

そういうことを軽く調べるだけでも、途方も無い量の努力があったことを知ることができる。

 

まるで親のスネをかじっているクソガキである。

親が死んだ時はじめてそのありがたさを知るという、どうしようもないクソガキである。

甘えたれのバカなクソガキほど、感謝をしないものである。

この世は自分のために回っていると勘違いをして、すべてのことは当然と思っている。

そしてその当然と現実の齟齬に腹を立て、めくじらも立てるのである。

これは性格や経験のせいではない。

無知だからだ。

 

勉強しようと思う。

知識は不要だと思ったこともあるけど、やっぱり、知ろうと思う。

「感謝の念を持ちましょう」とか、絶対にだめだ。

そういうふうにメッキみたいに表面だけ格好をつけるんじゃなくて、知らないとだめなんだ。

しょうもないイデオロギーなんか勉強している暇があるのなら「鋼鉄の作り方」を勉強したほうがいい。

ちいさな包丁一つ、ひとりでは作れないことを思い知る。

刀剣が生まれたことは、一種の奇跡であったことを思い知る。

経済の歴史を知れば、貨幣経済というシステムを構築することの困難さを思い知る。

貨幣経済が回っていることは、一種の奇跡であることを思い知る。

ひとりでは、なんにもできない。

生きるということは、過去と現在のだれかに助けられているということである。

生きるということは、奇跡のうえに成り立っている。

 

イデオロギーを捨てちまったら、これを悟った。

宗教的な悟りなんかより、このことを悟るほうが何百倍もステキだし、大事だと思うのです。

歴史を知ればだれになにを言われなくても、自然に感謝の気持ちがうまれる。

わたしはこの世界という、とてつもなくおおきな「やさしいこころ」と、数しれない「奇跡」に包まれていたことを知る。

考え方や解釈などという妄想に属することではなく、まごうことなき「事実」として知る。

いまの世界に文句ばかり言うやつは、天国に行ってもきっと文句を言うのである。

それはすなわち、どこへ行っても地獄だということである。

 

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