すべてを神に委ねる的な

いやべつに、突如として宗教に目覚めたとかではないんだけれども。

「すべてを神にゆだねる」

そういうふうに思ってみるとがぜん肩のちからがガクっと抜けて、顔面もゆるんで、なんかアハハ、ま、いっか的な気分になることに気がついただけ。

 

なんちゅうかその、ぼくはどうも「努力教」という宗教に洗脳されていたっぽくて、なんでもかんでも自力で乗り越えないとダメなんじゃ、がんばらんといかんのじゃ、人生は根性なんじゃ、甘えたらいかんのじゃ、強くならんといかんのじゃ、サボったらいかんのじゃ、努力せんといかんのじゃ、みたいな、あきらかに病的な指向性をもっていた。

そんなだから、仕事でもなんでも人に任せるのが苦手で、だれかにいちいちやってもらうぐらいなら自分でやったほうが速いとか、だれかに任せてもどうせちゃんとやってくんねえしとか、ぐずぐずいって、結局なんでもじぶんでやるようになっていった。

そんなことをしていたら、いずれ疲労が限界にきてぶっ倒れるに決まっているのにねえ。

 

「ひとを信用していない」っていうのがある。

で、なんでひとを信用できないかというと、じつは自信がないからなんだよなあ。

だれも信用できないから消去法的に信頼先がじぶんになったけど、ほんとうは「だれかに任せる自信がない」ということだったりする。

ひとを愛せないひとは、じぶんのことも愛せない。

それと一緒で、ひとのことを信じられないひとは、じつは、じぶんのことも信じられていないのだ。

そして、じぶんを信用できないひとは、神仏も信用できない。

「じぶんだけが有能である」だなんて、これっぽちも思ってないんですよね。

そうじゃなくて、足りないのは「信じるこころ」。

 

ひとのことも、神仏も信用できないのは、「じぶんを捨てきれないから」。

「まかせる」というのは、「捨てる」のと、原理が同じなんだな。

だから、捨てるのがヘタクソなひとほど、任せるのもヘタクソ。

けっきょくは、けちくさいんだ。

信じるとは、捨てることと、見つけたり。

 

「神仏に任せれば、すべてがうまくいく」だなんて思っているうちは、なんにも捨てきれていない。

信じていないのと、同じなんだよなあ。

そうじゃなくて、「うまくいかなくたっていいから、神仏におまかせする」っていうのが、ほんとうの「信」だ。

この気持になるためには、「よい結果への期待」さえも、捨てちまわないといけない。

 

そんなことできるか!

と、おもうけど、あんがい、できるんだなあ。

数分間なら。

そして、そうおもっているあいだの数分間は、とってもこころが、あたたかい感じがする。

「信じる」って、おおきくて、やわらかくて、あったかい。

「うたがう」っていうのは、ちいさくて、つめたくて、かたいんだ。

 

ほんの1分間だけ、

「ぜえんぶ、かみさまに、おまかせしまーす」

って、おもってみる。

すると肩がきゅうに、らくになる。

呼吸もとても、らくになる。

ふだんから、背負い込みすぎなんだよな。なんでもかんでも。

だからかみさまに「丸投げ」したら、とたんにからだが、らくになる。

 

「かみさまなんて、いない!」

っていうひとはたぶん、けんとうちがいをしているとおもう。

かみさまがいない理由を、「わたしのねがいを、ききいれてくれなかったからだ」なんて思ってる。

あたりまえじゃん。

阪神に勝ってほしいっていう人のねがいと、巨人に勝ってほしいっていう人のねがいの、両方をかなえたら、どうなるの?

みんな死にたくないけど、みんなの願いをかなえたら、どうなるの?

みんな死ななくて、どんどんひとが増えたら、食べ物どうするの?

ねがいがかなわないのも、かみさまの計画のひとつ。

それに、結果を期待してやる祈りは、祈りじゃないんだってさ。

結果がよくならなくても、むしろ悪くなるとしても、それでも祈らざるを、えない。

そんな祈りが、ほんとうの祈りなんだって。

たしかに、いきていれば、そういうときがある。

結果なんてどうでもいい、でも、祈らないでいることが、どうしてもできない。

苦労をしたひとほど、そういう瞬間を、よく経験する。

 

ぜんぶをすてて、こころのコップが空っぽになったとき、はじめてかみさまに声がとどくそうだ。

もしかしたら、糸電話なのかな?

その状態を仏教では「解脱」っていうのかもしれないね。

だとしたら、かみさまがいるとか、いないとか、そんなこたあ、もうどうでもいいはなしだ。

「エゴを捨てられるかどうか」だけが、ポイントになってくる。

まあ、ほんとうにエゴを捨てられたら、祈ることなんかとくにないのかもしれないが。

あるとしても、きっと「超人的な祈り」なんだろうな。

どんなのかは、よくわからないけど。

 

「人事をつくして天命を待つ」みたいなのも、ぼくは「努力教」のスローガンだと思うんだ。

いいじゃん。

人事を尽くさなくても。

人事をつくすまえから、天命を待ってて、なにがわるいの。

その「尽くした人事」だって、どうせじぶんのエゴのためなんだろう?

じゃあそれは天には通じないはずだから、待ってても意味がないじゃん。

 

努力なんてしてないけど、

なんだかよくわからないけど、

かみさまに、おまかせしまーす。

で、いいとおもうよ。

ちきゅうは、まわる。

うちゅうは、おおきい。

 

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