「だまって食う」
最近の日本では、ほんとんどまったく言われなくなってしまったなあ。
むしろ食事というのはみんなでワイワイガヤガヤやりながらするのが当然、という風潮さえある。
今日の新聞の夕刊に、おもしろい記事があった。
2021.5.13 の神戸新聞夕刊の第一面である。
「黙食のススメ 禅に学べ」
禅には「五観の偈」というのがあり、そこにはこんなふうなことが書かれているそうだ。
米粒一つ、菜っ葉一枚にも、育て、運び、調理してくれた人がいる。
自分の生き方は、これを食するに値するか。
オオウ・・・ッ。
アオオオ・・・ウッ。
そういうふうに問われると、思わず起立し深々と頭を下げ最敬礼の姿勢で
「申し訳ありませんッ!!」
と、謝罪したくなってしまうではありませんか。
そうなんだよなあー。
本来は、米のひとつぶだって、手に入れることは難しいことなんだ。
農家の人が頑張ってくれたり、学者さんが研究して品種改良をしてくれたり農薬を開発してくれたりしたから、たくさんお米がとれるようになった。
またクルマや電車を発明し、それを走らせたり敷設したりしてくれたから、
道路をつくってくれたから、
スーパーなどの便利なお店をつくってくれたから、
貨幣経済という便利なシステムを開発してくれたから、
無数の人たちの努力のおかげで、ぼくはあしたも、お米を手に入れることができる。
これってじつは、奇跡というほどの出来事なのに、そのありがたみを忘れてしまった。
ここの米がうまいだの、あそこのはまずいだの。
農薬を使ってないほうがいいだの、オーガニックがいいだの。
オヤツ食をべすぎておなかいっぱいで、お米が食べられないだの。
お米には飽きちゃっただの。
しまいには、外食して食べきれなくて残してしまったりして。
昔はそのへん、厳しかったように思う。
ゴハンつぶを残したら、ものすごく怒られる。
食事の最中にベチャクチャ喋っていたら、ビンタされる。
テレビを見ながらゴハンを食うだなんて、とんでもないことだった。
「だまって食えッ!」
ジーチャンのゲンコツが飛んでくるのが、日常だったように思う。
でもいまは、全然ちがう。
ペチャクチャしゃべりながらゴハンを食べるのがふつうになった。
テレビはおろか、スマホを触ったりマンガを読んだりしながら食事をする人も多いらしい。
ぼくはなんとなく、思う時がある。
今回の新型コロナ騒ぎって、「そのへん」を警告してくれている面もあるんじゃないのかな、と。
ぼくももちろんそうだけど、ちょっとみんな気がたるみすぎているところがあると思う。
感謝することが、少なくなってしまった。
とくに食うことへの感謝について、あまりにも無頓着になっているような気がする。
栄養とか、うまいとか、高級だとかには敏感なくせに、肝心の「感謝する」ってことには無頓着になってしまった。
ぼくたちは若干、のぼせ上がっているところがあるのかもしれない。
はしゃぎすぎた罰。
のぼせ上がった罰。
病院とか介護関係を除けば、はしゃぎまわり、のぼせ上がった人たちにまつわる業態こそがとくに危険であり、とくに打撃を受けている感じがある。
むろんその業態のひとたちが悪いわけではないが、どういうわけか、「ハレの世界」こそがとくに、痛い目を見ている感が否めない。
医学・科学的見地からの考察もいいけれど、
ここは一発、人間らしく「反省する」っていうのも、やってみるべきなのかもしれない。
黙って、食う。
新型コロナの件についても、これは有効なことだろうと思う。
飲食店が危険だと言われているのは、結局はここなんですよね。
みんなペチャクチャとしゃべくりながら食うから、飛沫が飛んであぶない。
でも黙って食えば、かなり危険度は下がるはずだ。
「そんな・・・居酒屋で黙って飲み食いするだなんて、飲みに行く意味がねえじゃん」
まあ、そうだわなあ。
そんなだったら、家で食えばいいじゃん、っていうのは当然だ。
だから、思ってしまうんだよな。
食べ物に感謝をせず、ベラベラ喋りながら食い散らかしてきた罰なんじゃないか、って。
黙って、食う。
考えてみれば、かまびすしく断続的に声を出しながらものを食う生き物なんて、人間だけかもしれない。
イヌでもネコでもトリでもネズミでも、生き物はみんな「黙って食う」。
食うときは、食うことに集中して、黙って食うというのが、地球上の生物の基本行動だと思う。
いきものは、いきものらしく、天地自然のはからいに則って動くべし。
案外こういった「あたりまえのこと」ができていないというところに、人間と宇宙との分断があるのかもしれない。
姿勢を正して、感謝して、黙って食おう!
毎回じゃなくてもいい、たとえば週に1回だけでもいいから「黙食の日」があっても良いのかもしれないですね。