ホリエモンさんが生配信中「ちゃんと野菜取ってるえらい!」っていうコメントにブチギレる動画がありました。
「ちゃんと野菜を食べるっていう考え方がおかしい!」
ということで、カメラを殴るほどの勢いだったようです。
この件のほかにもSNSで「野菜も食え」っていうのに過剰に反応して炎上したこともあったらしく、「ホリエモンは野菜になにかルサンチマンがあるのではないか」という憶測を呼んだりしているらしい。
「沸点が低すぎるだろう」っていう揶揄が多いようですが、ぼくは個人的にすごく納得をしました。
「言っていることは正しいが反応が過剰すぎる」というのではなく、むしろこの強い反応こそに堀江さんの日本社会に対する本質的な危惧のようなものが含まれていると思った。
堀江さんは確かに独特で強烈な意見をよく言いますが、それは概ね理路整然としていて、このように感情的になることは珍しいように思う。
なぜ、ここの部分で尋常ならざる剣幕を持ち出すのか。
「したい」よりも「すべき」を優先する志向性への警鐘。
ということを感じるのであります。
食うといういきものの本質的な部分において「食事はバランス良く取らねばならない」という「ねば論」を用いることへの危険性。
もっと「じぶんのきもち」を信じるべきではないか。
もっと「すなおに」生きていくべきなのではないか。
ぼくはパニック障害を治そうと、4年間毎日必死でヨガを修行してきました。
しかし皮肉なもので、病気が改善し、最終的に到達した位相は「ヨガを捨てる」ということでした。
ヨガというイデオロギーのメガネを通してじぶんの体調を観察していると、本質を見失う。
やれ気が、チャクラが、エネルギーがという座標から自分を見るので、解釈もその枠を出ることがなくなってしまう。
まじめにやっても治らないから、じぶんのヨガの修行に間違いがあるのではと疑いを持つようにもなる。
ヨガもじつはイデオロギーのひとつにしか過ぎなくて、それを学ぶことで「ねばならぬ」が増えていく。
肉を避けて野菜を主体にすべきであるとか、あるいは菜食にすべきであるとか、そのような「べき」「ねば」という硬直した思考と行動になり、結局はこのことこそが自分自身を束縛していくのであります。
そういうことではない。
ヨガを捨てて、はじめて気がついた。
「野菜を主体にすべき」では、なかった。
そうではなく「わたしはいま、なにを食べたいのか」ということに「ただしく気づく」ことこそが、もっとも重要なことだったのでした。
よけいな知識を持っているとじぶんが「感じていること」「思っていること」「願っていること」について、とても「鈍く」なってしまう。
結果、あきらかに間違った方向性に進んでしまうことが極端に増えていく。
意思が強いひとほど、危険なのです。
「野菜を主体にすべき」とかではなくて、「精神と体が調和していると自然と少食になり、肉を欲しがらなくなり、野菜を美味しいと感じるようになる」だけのことだった。
理想論ではなく、結果論だったのです。
だれにでも、ある。
「なんだろう、ものすごくトマトが食いたい!」
「無性に、キュウリが食べたいぞ!」
「なぜかキャベツが食いたい!」
「むちゃくちゃニクが食いたい!」
なぜ、そう思うのか。
それはからだがそれらを欲していて、なぜ欲するかというと、その栄養素などを求めているから。
これにすなおに従うと、とても美味しい。
しかし「トマトを食べなくてはいけない」と「考えて」食べるとあまり美味しくないばかりか、からだを害することさえある。
からだは脳みそなんかより、断然優秀なプログラムを持っている。
足りないものを、足りないとすなおに警告を発する、単純にして優秀なプログラムを備えている。
基本的に、からだが欲することに素直に従っていれば良いのでした。
この原理で注意すべき点は「中毒性」だけです。
お酒、砂糖など中毒性のあるものについては「からだが欲している」と解釈すべきではない。
それは「精神が欲している」だけのことが多くて、これに従うとからだも精神も壊れていく。
これはからだが欲しているのか、精神が欲しているのか、これを見極めるのも「感覚」です。
断じて「知識」ではない。
この感覚の輪郭をくっきりさせることに必要なのは「すなおになる」ということなのでした。
食べるものについて「義務」や「知識」を優先して矯正しようとする行動原理は、生活の原理にも陰を落としていく。
「したいこと」よりも「ねばならぬ」のほうを優先していくようになるのであります。
「やりたい仕事ではないけれど、生きていかなければいけないから、我慢していやな仕事で働く」というようなことも起きてくる。
うそつけ。
ほんとうにしっかり、考えたのか。
生きていくために、ほんとうにそのイヤな仕事でなければならないのか。
そうではないはずだ。
「したいこと」を優先できなかったのは、勇気がないからではない。
ましてや、能力がないからでもない。
「ねばならぬ」のほうを優先するクセが邪魔をしただけである。
この世界では、だれも未来のことを知らない。
だれも知らないのだから、未来はじぶんで決めるものなのである。
しかるにどうして「イヤな仕事で生きていく」ことで、無難な未来を得られると思うのか。
んなわけあるか。科学的におかしい。
イヤな仕事で生きていったら、イヤな結果しか待っていないのである。
未来は「いま」の蓄積だから、「いま」が「いやだなことだらけ」なら、「いやな未来」しか出来上がってこないのであります。
このへんな方向に向かう最大の原因は「じぶんのきもち」をいい加減に扱って、知識だの理屈だの義務だのという、本来どうでもいいメタ情報に依存したことにある。
「野菜を食わねばならぬ」という、どうでもいい情報に依存するのとメカニズムが同じ。
じぶんのきもちにすなおに従っていれば、そこそこうまくいくものを、いちいち「ねばならぬ」というイデオロギーによって、みずからの人生に妨害工作をはたらくのである。
「ねばならぬ」の思考原理に生きるのは、人生へのテロ行為である。
だから堀江氏は「怒った」のではないか。
あれだけ激昂するのは「この部分こそが最も重要なところだから」なのではないか。
ほかのことなら、代替の方法はいくらでもある。
でも「じぶんのきもちを信じる」という基本原理だけは、代替がない。
これだけはそのまんま実行しないと、ほかにどうしようもないのであります。
食わないといけないから食うのではなく、美味しいから食う。
これは「怠惰」などではなく「客観的かつ緻密な自己観察眼」に依拠するものであります。
これをヨーガでは「梵」という。
いまここで、わたしは、なにを欲しているか。
ようするに、わたしはなにが、したいのか。
このことが曖昧であったり、義務だの知識だのというよけいなメタ情報でケガれてしまった感覚によって誤って解釈していたら、正規のソリューションが永久に見つからないばかりか、奴隷のような人生になっていってしまう。
じぶんじしんに、すなおであること。
かんたんなようで、これがいちばん、むずかしい。