イエスは仏教徒だった?(2 )から引き続き。
とても面白い本でしたが・・・。
本の内容とは別件で、すげえ違和感を感じたことがある。
この本、全部で380ページぐらいあるんだけれども、「解説」だけで75ページもある。
全体の20%が解説って、なにそれ・・・・・・。
そんな本、ある?
この本の巻末の解説に、合計7人の教授や大学院生、研究生が寄稿しているんです。
で、解説を読んでみたんだけと、これがまた、超絶つまんないの。
それぞれの専門領域について解題してくれるのかなと、ワクワク期待して読んでみたんだけど、7人の学者さんが言っているのは結局ようするに、
ものすごく長ーーーい文章で、すげーーーむつかしーーー言葉も使って、
・トンデモ本よりは全然マシで真面目な本だけど、イエスが仏教徒だったというのは論としては弱いし「そうだね」とは言えねないよね。
・著者はヨーロッパ人だから、インドへの憧れとか、アーリア人至上主義の立場からこういう本書いたんじゃないの。
・証拠が全然足りないじゃん。
・古代史研究とか聖書研究に一石を投じたという意味ではいいんじゃないの。
みたいなことでした。
・・・・・・・・・・・・・すごいよなあ。
「75ページ」も割いて、7人の学者さんがゾロゾロ出てきて、むずかしい言葉でびっくりするぐらい長〜〜い文章書いて、いろんな文献とか引用してきて、結局そんな話。
で、そういった批評的な文章が続く中、いちばん解説してほしい箇所になると「この部分は私の専門外なので別稿に譲る」といってヌルっと逃げたりする。
いや、それだったらなんでお前が書くねん、と思う。
「解説」っていう題じゃなくて「学術的批判」っていう題に変えたほうがいいんじゃないの。
ていうか、
いる? これ。
そんなのわかりきってるじゃんか。
これはあくまで「そういう説」なんだから、これが絶対とか思うわけないじゃん(まあ、中には信じ込むひとはいるのかもしれないけど、日本じゃそんなに売れねえよこんなテーマの本)。
著者が自説の補強のために意図的な引用をするとか、そんなの当たり前で、そこをツッコんで「それ、あなたがそう考えてるだけですよね」とか、ただイジワルなだけじゃないのかな。
それに「ヨーロッパやキリスト教はインドへの憧れが歴史的に強いから、こういう論調になったのでは」っていうのも、それこそこの解説者の「推測」じゃないか。
著者がそう言ったわけでもないし、ヨーロッパやキリスト教が歴史的にインド傾注型の傾向があったとしても、この著者たちが同じ考えだとは断言できないじゃん。
人の思想や指向性って、人生のいろんなステージの中で繊細に変化していくものだし、その人が所属する社会やコミュニティにおいて時間軸と交流軸が織りなす立体的空間の中で経験と情報と思考が複雑に有機的に相互影響して生起するものなのに、どうしてそんな、十把一絡げの、ややもすれば人種差別とも取れるような安直で短絡的な推測ができるのだろう。ぞっとする。
なんていうか、屁理屈をつけてでも、どうにかこうにか結論をグレーにもって行きたくて、むりやり紙数を増やしているような意図さえ感じてしまいました。
どうなんだろう。
こういう学術書って、7人も解説したりするのかなあ。
ふつうは、1〜2人ぐらいだと思うんだけど。
それか、これはすごく穿った考えなんだけど、そのむかし「イエスのミステリー」っていうトンデモ本が大ベストセラーになって、それの二匹目のドジョウを狙ったのかも、なんて思ったりしましたね。
そもそも原題は
Der ur – Jesus
Die buddhistischen Quellen des Christentums
で、日本語に訳せば多分
「初期のイエス* ~キリスト教の源は仏教(徒)だった**~」
* あるいは「イエスの源流」
** あるいは「キリスト教の泉としての仏教(徒)」
みたいなことだと思う。
なのにこの本の題は「イエスは仏教徒だった!?」という、ものすごいキャッチーなものになっている。
副題として「大いなる仮説とその検証」とあり、これも原題にはない。
そして、もともとあった、キリスト教と仏教との関連を示す意味の副題が割愛されている。
たしかにエピローグで「イエスの真の教えは仏教の教えだったのである」と断言している箇所は、1箇所だけある。
しかし本文内ではイエスは間違いなく仏教徒だった、だなんて断言しているわけではなく、あくまで仏教がイエスの思想に多大な影響を与えた可能性は非常に高い、という話で抑えられていて、「イエスは仏教徒だった」とはべつに断言していない。
原題と内容からすると、あくまで「キリスト教と仏教の関わりを通じて原初のイエス像を再構築してみる」という「試行」が意図だと思う。
しかるに、「イエスが仏教徒だっていうのは論として弱いだろう!」なんて噛み付くのは、ちょっとしたコミュ障ではないのだろうか。
そもそも原題には「大いなる仮説とその検証」なんていう言葉が入っていなくて、これは訳者さんか編集者さんがあとからつけた日本語でしょう。
この後付けの日本語副題に引っ張られて、仮説の検証がおかしいというのは、コミュ障ではないのか?
そもそもこの「解説」の副題が「イエス=仏教徒説を検証する」ってなっているんですね。
「解説」が「検証」って、おかしくないのかな?
検証って、解説をしたあとにやるもんじゃないの。
まず本の構成設計である「台割」が間違ってるような気がする。
そしてもともとの本の題に「イエス=仏教徒」だなんて書かれていないし、内容もそんなに短絡的な結論はしていない。
なのに、かってにそういう日本語の副題をつけて、かってに検証を開始している。
なんか、先走ってね?
以下のようなことを、妄想してしまう。
この7人のうちの誰かが「これ売れるんじゃね」的にドイツから持ってきた。
しかし、そのまま自分の名前を出して訳して出版すると内容が内容だけに「学者としていろいろ問題がある」かもしれなくて。
「イエスのミステリー」みたいに、キャッチーなコピーで売って儲けたいんだけど・・・でも怖い。
「イエスのミステリー」は完全にトンデモ本だから、へんにキャッチーな本を出したら、誤解されてアタクシのコケンに関わるざます。
そこでいろんな学者に声をかけて「保険的に」解説を書いてもらおうかと考えた。
「ほら、トンデモ本じゃないよ。こんなに専門家が解説を書いてるんだから、あくまで【一般者向け学術書】なんだってば! 反証もあるでしょ!」
と、言い訳がしたかったのではないか。
しかし、残念ながら、この本はあまり売れなかった。
そりゃあそうだわなあ。すげえ難しいんだもの。
解説者が7人も出てきたことで、本は分厚くなり、よけいに難解なイメージが強化された。
つまり、プロモーションに失敗したんじゃないかな。
エキセントリックな題名をつけて売りまくって儲けたいという欲望と、
しかしそれでは名誉に関わるという保身的自己防衛欲求が相まって結局「なんだかよくわからない本」になってしまった。
販売に理解がない学者が絡むと、こういうことがよくある。
みたいな。
まあ、もちろんこれはぼくの妄想です。
ちがったら、ごめんなさい。
でも、元編集者だった立場からして、すごくもったいないなあとは思いますね。
この解説のせいで、本の「市場価値」が下がったんじゃないか。
「学術的な価値」は上がったのかもしれないけど・・・でもたぶん、こんな内容ならべつに上がってはないでしょう。だって煮詰めたら「文句」か「グレーゾーン化」だけだから。
この本は、もうすこしうまいこと持っていけば、むちゃくちゃ面白くなると思います。
写真や付録を全部巻頭や巻末にまとめて入れるんじゃなくて、解像度は悪くてもいいから本文の該当場所の近くに掲載するとか、
注釈も引用文献の題名だけ書くんじゃなくて(それもドイツ語のままだし)ちゃんと解題するとか。
(そうそう、あんなに膨大な解説を掲載するより、原文の注釈をきちんと解題してほしかった)
文章ももうすこし平易にできるはず。
でもまあ、解説した学者さんに非があるあるわけじゃなくて、学者さんとしてはやっぱりいい加減なことは書けない。
よほど明確な実証がない限りは、こういったエキセントリックな説を安易に補強するようなわけにはいかないはずです。
とはいうものの、数千年も前の出来事なんて不確実なことのほうが当たり前で、確たる事実だけをもとに研究していったら歴史学というのはものすごく狭い範囲のことしか対象にならなくなってしまう。
冒険が一切できない。
だからこういった仮説を解説するとなると、グレーにならざるを得ないわけで・・・。
だったらばもう、こういった学説には何も書かなくていいんじゃないかな、なんて思う。
個人的には「ヒストリーチャンネル」とかで、映像化してほしいなあ。
思い切って言っちゃうけど、正しいか、正しくないかなんて、クソくらえなんじゃ。
だって、2000年も前のことが、ほんとうにわかるわけはねんだからよう。
みぃーんな死んじゃってんだからさ。
あー、ロマンがもったいない。