あのサグラダ・ファミリアの主任彫刻家は日本人の外尾悦郎さんという方なのだそうです。
氏はもともと仏教徒で禅に凝っていたけど、この仕事に就いてからカトリックに宗旨変えをしたらしい。
「ガウディを見るのではなく、ガウディが見るものを見なくてはいけない」
ガウディの思考を夢想しトレースするだけでなくて、自分自身がガウディにならなければならない、みたいな意味なのかもしれませんが……覚悟がすごいなあ。
まさに一命を賭けて取り組む、という感じがします。
主任彫刻家というエラいさんになったことやその技術のほうよりも、精神的姿勢や覚悟のほうに強い尊敬の念をいだきます。
すごい人だ。こんな人も、いるんだなあ。
日本で法隆寺の修復とかがあったとして、もしその主任美術担当に外国人を起用したら「日本人でなきゃダメだ!」みたいな意見が押し通されるように思う。
スペインの天才建築家の設計によるカトリック教会の彫刻主任に、異教徒かつ外国人を起用する。
そのへん、スペインの人はおおらかなのか合理的なのか、あまり人種とかにこだわらないのでしょうか。
そういえば、「納期」にもあまりこだわっていない感じがする。
当初サグラダ・ファミリアの完成には「300年」かかると言われていたそうです。
300年て!
そもそもの話としてそんなロングスパンのプロジェクトに手をつけようということにビックリだし、またそれを継続していこうという気持ちも正直よくわからない。
最近は観光収入のおかげで予算的に余裕が出てきたことと、3D技術やAI技術の高度化によって、うまくいけば2026年には完成するのではないか、と言われているそうです。
それにしても、144年かかったことになる。
最近、100年以上かけて作る建造物などほかにはないのではないか。
「完成までの綿密なスケジュールとマイルストーン」
ふつう仕事をするうえではこれが重要だといわれます。
お尻を決めずに物事を進めていくと納期が曖昧になって、結果売り上げにもつながらないし、ユーザーにも迷惑がかかる。
電車がほとんど遅れない日本においては、このことは特に重要視されているように思う。
「遅れないこと」
遅れない、という志向性はややもすると「急ぐ」という気持ちを生みがちです。
急ぎ、焦るようになる。
ぼくは長年パニック障害をやってきたけれど、たまに思うことがあります。
パニック障害の原因には医学的な原因があるかもしれないが、そもそもの話としてぼくには「急ぎやすい」という志向性があるのではないか。
急ぎ、焦りやすい性向がある。
仕事などの計画も、前倒し前倒しでやろうとすることがある。
急がなくてもよいことでも、急いでやろうとする傾向がある。
時間について、非常に神経質である。
歩くことも、日々の動作も、早く荒いところがある。
生来の性格はむしろ「マイペースののんびりやさん」だったがゆえに、社会で揉まれていくうちに、かえって「締め切り」ということに神経質になってしまい、日々是特急ナリ遅延ハ悪行ナリという硬直原理が生まれていった。
早いことは、いいことだ。
そう考えているのはぼくだけではなく、社会全体もそんな風潮があると思う。
時間に正確であることも、善行のひとつであるような価値観もある。
人に迷惑をかけない、人の時間を奪わない。
道徳としても推奨される感もある。
サグラダ・ファミリアが、なぜ完成を急がないのか。
急いでできるような設計ではないという現実的な理由だけでなく、根本的な理由もあるらしい。
「神はお急ぎではない」
教会なのである。
いわば「神の家」みたいなことだから、施主さんは個人や法人ではなく「神」である。
その施主さんが、急いではいない。
だから納期よりも「教会としての完成度」とか「神の威光の再現」ということに全力をつくす。
急いで手を抜くぐらいなら、やらんほうがマシだ、ということなのかもしれません。
ふと思ったのが、スペインだけでなくイタリアなどラテンヨーロッパの人たちが比較的時間にルーズなのには、案外これに似た思想があるのではないか。
そういえばラテン系にはカトリックの国が多い。
ぼくたち日本人はあらゆることについて対象を「人」に置くところがある。
人に気をつかい、人のためを考え、人を主眼に置く。
いっぽう、もしかするとカトリック系の国では伝統的に対象が「神」になっているようなところがあるのではないか。
神に気をつかい、神のためを考え、神を主眼に置く。
神とは人智を超越した至高の存在であるから、人間のちまちました損得や迷惑などという次元とはまたちがった「約束」があるのかもしれない。
人間は小物なので、ネズミのように急ぐ。
しかし神は、急がない。
「神はお急ぎではない」
ぼくはカトリックではないが、こころが急いで焦っているときに、心の中でつぶやいてみる。
そうするとどういうわけか、焦りがすこし、マシになる。
神はお急ぎではない。
急いでいるのは、ぼくである。
この一組の相反の景色によって、急いでいることがどうにもバカらしく感じてしまう。
急ぐことが目的じゃなかったよな。
大事なことは、急ぐことではなかったよなあ。
大事なことは、ほかにたくさん、あったよなあ。
てんであたりまえのことに、ふと気がつく。
どうせみんな、死んでしまうんである。
長生きしたってせいぜい100年、ほんのみじかい人生のなかでアタフタ、チマチマ、まるでこまねずみのようにクルクルバタバタ走り回って、おまえはなにがしたいんじゃ、いったいなにをしとるんじゃ。
神はお急ぎではない。
ぼくももっとゆっくり、じんわり、生きてみよう。
自然は急がないが、すべてを成し遂げる。
すぐに役立つことは、すぐに役立たなくなる。
あわてる乞食は、もらいが少ない。
急がば回れ。
結局、言っていることは全部一緒であるな。
急ぐというのは「肝心ななにか」を喪失してしまったときに発生する、こころの病気なのかもしれん。
せっかちと短気は性格ではない。ただの病気である。