「ぼくは、ストレスを抱えている。」
このことに気がついたら、過去に試してきた健康法がなぜ効かなかったのか、ということも理解できるようになってきました。
ぼくはパニック障害を治そうと思って、ヨガを習いはじめました。
最初の頃はけっこういい感じで、これはいいぞ、と思いました。
そこから4年近く、ほぼ毎日ヨガをしています。
しかし残念ながら、パニック障害は治りませんでした。
それどころか、外出恐怖症や自律神経失調症なども出てきてしまって、正直にいうと、ヨガをして良くなったところはほとんどありませんでした。
これに似たようなことで、気功も、瞑想も、各種呼吸法も、各種体操法も、太極拳も、ジョギングも、ありとあらゆることが、結局功を奏しませんでした。
どれも、やりはじめたころは、けっこういい感じなのです。
しかし継続すればするほど効果は逓減していき、ついには無効どころか、ぎゃくにほかのわるいところが追加されるぐらいでした。
ぼくは自分でいうのもなんですが、けっこう継続力があり、たとえば今は坐禅にハマっていますが、もうすぐ1ヶ月が経過しようとしています。
毎日15分、ということを決めたら、絶対にやる。
なぜ、何もかもが、効かなかったのか。
「わたしはストレスを感じている」というセンサーに注目すれば、これはまことに当然至極、あたりまえのことだったのでした。
ポイントは「やりはじめのころは、いい感じ」というところにあります。
つまり、各種健康法などは、効果はあったのです。
しかし継続するにつれて、じつはぼく自身がその効果を打ち消していたのでした。
いい感じだから、これを続ければ治るのではないか。
そのような期待がまず、めばえます。
そしてそのうち「継続せねばならない」という義務感が発生してきます。
さらに継続していくと「これを行わないと、悪化するのではないか」という恐怖感さえめばえてきます。
これを、なんというでしょうか。
まさに「ストレス」なのです!
ぼくは、各種健康法をするごとに、ぎゃくにストレスを追加していたのでした。
「継続はチカラなり」という格言を、誤って解釈していたのです。
たしかに継続は、チカラになります。
しかし、チカラになったとしても、ストレスは解消されないのです。
ぼくが目指すゴールは、ストレスからの開放です。
チカラをつけることではなかったのです!
「ああ、きもちいいなあ!」
これを感じることこそが、ストレスの開放だったのです。
ジョギングを始めたときも、そうでした。
それはもう、世界が変わるほどの爽快感を覚えたものです。
だからぼくは興奮した。
ジョギングを続けていけば、きっと治る!
そんな期待をしたのです。
そこからぼくは、毎日毎日、ときには1日に数回走りにいったことさえあります。
1ヶ月ほどは調子良かったのですが、ある日突然、パニック発作がぶり返しました。
「これは、好転反応かもしれない」
そんなことを思って、さらに毎日、根性を出して走り続けました。
そうしたら、1ヶ月半が過ぎたころ、ぼくはもう外出さえできないほど、悪化してしまったのでした。
それどころか、ずっと熱が下がらなくなったりして、明らかに自律神経の失調まで至ってしまいました。
「やりすぎた」ともいえますが、正確には、すこしちがいます。
「辛くても根性を出して頑張ってしまった」ところが、いちばんの原因だと思います。
最初はほんとうに、気持ちよくて、たのしかった。
しかしそのうち、辛くなってきたのです。
それでも「こんなところでサボってはいけない!」と自分を追い込み、さらに強く継続の意思を固めてしまったのでした。
最初こそ、ちゃんと「ストレス解消」になっていたのです。
しかし「続けねば」という強い意思を持ってしまったがゆえに、むしろその行為そのものが、ストレスになってしまったのでした。
三日坊主なひとからすれば、もしかすると、この性向は羨ましいのかもしれません。
でもはっきりいって、三日坊主になれないこの習性こそが、ぼくの自律神経をぐっちゃぐちゃにしているところがあります。
子供の頃から、とくに両親から、ずっと言われてきたのです。
継続はちからなり。
ものごとは、10年継続しなければ、なにも見えない。
柔道部に入るときも、10年間続けることを条件に、許可をもらいました。
途中でケツを割るなど、我が家ではほぼ犯罪行為に近い雰囲気がありました。
しかしそれは、決してわるい風習ではありません。
むしろ、とても大事な教訓かもしれません。
しかしながら、なんでもかんでもが、そうではないのです。
世の中には「めざすもの」と「いやすもの」があります。
ヨガやジョギング、各種健康法などは、あくまで「いやすもの」なのですよね。
趣味の一環であり、ストレスを和らげるものである。
ヨガのインストラクターを目指すとか、オリンピックを目指すとかなら、「継続」という根性を発揮することは、やはり必要なのかもしれません。
しかしぼくの目的は、自らを癒すことだった。
ストレスを開放することだった。
その目的のばあい、ストイックになることは悪影響こそあれ、なんのメリットもありません。
ぼくはこんなにあたりまえのことを、いまのいままで、気が付きませんでした。
三つ子の魂百まで、とはよくいったものです。
しかし、親がわるいのではないです。
むしろそのように強固な継続性を両親から教育してもらったからこそ、ぼくは独立開業しても、ぜったいにケツを割らなかったのです。
いちど決めたことは、そうそうかんたんには、あきらめない。
この根性は、両親の教育あってのことです。
だから、両親の教育がわるかったのではない。
いい年こいて、自らの状態を客観的に見られていなかった自分こそに、最大の原因があります。
継続、という一側面だけに怠惰に居座り続けたことに、問題がある。
いま、ぼくは、なにをしようとしているのか。
その目的を、容易に喪失してしまうから、おかしくなる。
どのようなことでも、目的が「継続すること」であることなんて、まずない。
目的が楽しむことであり、快感や爽快感を得るためであれば、その目的を遂行せねばなりません。
なのにぼくときたら、いつしか「継続する」という手段を、目的と履き違えてしまっていたのでした。
ぼくは最近、坐禅にハマっています。
これも、注意しようと思います。
いまのところ、坐禅はとても気持ちが良くて、神経が休まります。
もしこれが「義務感」に変容してきたときは、未練なく、冷酷に、すぱっとやめようと思います。
数日から数週間、距離を置いたほうがいい。
「つらいのをがまんして、乗り越えたところに、光明がある」
はっきり言う。
これは完全に、迷信だ。
と、思う。
それをしている、この瞬間。
この瞬間こそが「光」なのですよね。
光の点を、紡いでいくから、光の道になる。
我慢や辛抱などという闇を紡げば、闇の道になる。
たのしくなければ、きもちよくなければ、原則どのようなこともするべきではないのかもしれないです。
栄光のために、苦労せよ、耐え忍べ。
これは、天下の大邪教だ。
苦労せずになにかを成し遂げようだなんて、甘すぎる、といいますけどね。
逆だ。
苦労しなければ何事も達成できない、なんて考えるほうが、ずいぶんと甘ちゃんなのですよね。
苦労さえすればなんでもうまくいくのなら、この世のひとは全員、もっとうまくいってる。
苦労と成功は一直線上にあるのでもないし、階段状でも梯子状でもなく、もっと立体的に、二匹の蛇のように交差しているんです。
なのにあたかも苦労の道の先に成功が約束されているだなんて考えるのは、あまりにもお花畑すぎる。
お粗末すぎる。
そんな甘くねえや。
甘くないからこそ「この瞬間」が、いちばん大事なんですよね。
いまを大事にできない、楽しめないような、そんな「甘ったれた」やつが言うことなど、はなから信用してはいけませんね。