治したいという気持ちを捨てるひととき

座禅と掃除を毎日やるようになってから、急激にパニック発作の頻度が落ちていった。

昨年の話である。

 

「一日たりとも欠かさずに」200日間連続で、毎日座禅をやった。

べつに、大願を立てて苦心惨憺してやったわけではない。

なにかの拍子にたまたま座禅をやってみたところ、あらっ、これはなんかいいぞ、と感じたからである。

当時は四六時中神経が興奮している感じがあって、まったく落ち着かない状態が半年以上続いていた。

パニック発作も1日に1回は出るという、ものすごくつらい時期だった。

広場恐怖症も悪化して、ほとんど外出できない時期さえあった。

それが、座禅をしてみるとおよそ15分ほどで神経が穏やかになってくるのを感じた。

よく眠れるようになっただけでなく、100日を過ぎたあたりからパニック発作もあまり出なくなった。

200日めを迎えるころには、外出ができるまでになっていた。

 

こう書くと「瞑想が効いた」みたいに見えるかもしれない。

もしかしたらそうなのかもしれないが、ぼくは自身の反応の状態を観察してみるに、ただ「瞑想が効いた」とするのは、あまりにもジャンボリーすぎる解釈ではないのかなと感じている。

というのも、座禅ではないがヨガ系の瞑想や、マインドフルネス系の瞑想なら、それまでにも何度かやっていたからだ。

しかし、それではまったく改善をしなかったのである。

 

では何が違ったのか?

それはおそらく「目的の喪失」にあったように思う。

 

ぼくが座禅をしようと思ったきっかけは、禅マインド ビギナーズマインド という本だった。

そこには、衝撃的なことが書かれてあった。

「座禅に効果なんてない」

効果を求めてやるような座禅は禅ではなくて、それは野狐禅といって最も下等な禅である。

下等なだけではなく、危険であるとさえ書いてあった。

 

「パニック障害を治すために」そう強く願って生きてきた、努力の10年間。

それを根底から否定されたような気がして、なんだかあたまをぶん殴られたような衝撃があった。

ぼくは思った、

「効果がないのなら、どうしてやる必要があるのか?」

その答えは、よくわからないものだった。

「座禅する、そのことじたいが、ほとけさまだからである」

これを「なるほどね」と思える人が、この世に何人いるのだろう。

Amazonや本屋で購入できる瞑想の本のほとんどは「かくかくしかじかの効果があります」というものばかりだ。

本に限らず、ウェブサイトでもそうだし、巷間のヨガ教室、健康教室も、ぜんぶそうだ。

「うちに来たって、効果なんかないよ。」

そんなことを言う本やウェブサイト、教室など皆無に等しい。

あらゆるメソッドが「効果」をうたっている。

 

ぼくは逆に、だからこそ、「これは本物なのではないか」と感じた。

その本はあきらかに、座禅をすすめている。

しかし、それなのに、座禅には効果などないと断言しているのである。

やってみよう、と思った。

 

そこが入り口だったから「どうやったら治るのか」ということをできるだけ考えないようにして座禅をやった。

禅のお坊さんたちが、みんな言うように、そのまますなおに、なんにも期待しないで、願わないで、努力しないで、矯正しようとしないで、変えようとしないで、ただ姿勢を正して座った。

姿勢を正すことで横隔膜がどうなるとか、血行がこうなるとか、神経や筋肉がどうのこうのとか、腹式呼吸がいいとか、吐くほうが大事とか、そんなこともできるだけ考えないようにして座った。

そうしていくうちに、なんともいえない平和な気分になれる瞬間が、ときどき現れることを知った。

例えるならば、まっくらな夜空にちいさなちいさなおほしさまが、ひとつ、ふたつと灯るような感じで、それはあらわれる。

おほしさまが、たくさん出る日もあれば、まったく出ない日もあった。

禅ではいう、「うまくいっていない座禅もまた、座禅なり」。

だから焦らず、期待せず、おほしさまを出そうとは考えずに、だめならだめで、そのまま座った。

 

結局、あたりまえだけど「悟った」みたいなことは、なにひとつなかった。

でもぼくは、ぎゃくにこれで正解だったんだろうな、とも思った。

ヘンに高等な意識状態のようなものを感じてしまったら「もしかしたら悟れるのではないか」みたいな欲がうまれてしまうかもしれないからだ。

それは余計なことのような気がした。

 

どうして座禅を続けたら、神経の具合が良くなっていったのか。

ぼくは想像するに「治したいという気持ちを捨てるひととき」を持ったからではないか、と思っている。

あんなにつらい病気になって、治したいという気持ちを捨てろだなんて、絶対に無理な話である。

でも「数分間だけ」なら、できない話でもない。

24時間のうち起きている時間が16時間として、そのうちのたった5分、あるいはったった1分だけでもいい、「治したい欲」からすこしだけ、離れている。

このことが、原因だったのではないか。

 

200日の座禅のそれ以降頻度は格段に減ったものの、パニック発作がまったく出なくなった、というわけではない。

しかし気がついたのが、ある「欲」が高まると、発作が出る頻度が高くなっていたということである。

ただしその欲は食欲とか性欲とか睡眠欲とかの基本的な欲ではなくて、「願望」のほうの欲である。

なにごとかをつよく欲し、願い、念ずるときに、神経がおかしくなるようであった。

だからぼくは以降、パニック発作とは「念の病」ではないか、と思うようになった。

ぼくのばあいは「治したい」「健康になりたい」という「念」。

この念が強すぎたために、神経が疾走していたように思う。

なので逆に、そのような「念」をできるだけ持たないようにすれば座禅をせずとも神経状態がおかしくなるのを防げることもわかった。

 

もしかすると、ぼくを痛めつけていたのは「治したい!」という強い「念」だったのかもしれない。

もしそうならば、10年も必死であらゆる方法を試しても治らなかったことに、説明もつく。

「念」が原因ならば、「念」を捨てなければ、治るわけがないじゃないか。

 

いまの世の中、「つよい思い」や、「あきらめない」ことを美談とし称賛することはあっても、「思いを持たない」「あきらめる」ことをすすめることは、皆無にひとしい。

ものの本でさえも「『あきらめ』は『あきらかにする』が語源で、『断念する』ということとはちがう」というような解説をしていることもある。

しかしぼくは「念」を「断つ」、断念するということは、必ずしも悪いことではなく、むしろ良いことなのではないかと思う。

美徳ではないか、とさえ思う。

世間では目標や夢を持つこと、そしてそれを実現するために頑張ることをまるで良いことのように言うが、そんなものを持つからこそ苦しみが増えるというのもあるし、ケンカの元であることもある。

てめえが抱えておる夢や目標など、実現してもしなくても、空は空、海は海、星は星である。

そのようなものにこころをうばわれて、まるできちがいのように騒ぐことが「人間らしい」とは、ぼくにはあまり、思えない。

甘いのかも、しれないが。

 

フルーツバスケットのように限られた椅子を取り合うことを、なぜ良しとし、美徳とするのだろう。

人数分の椅子がなければ、みんなで大地に座れば良いではないか。

どうして争ってだれかを蹴落として狭い椅子に座ったひとが勝者とされて、みんなが座れる広い大地に座ったひとが、敗者とされるのか。

逆じゃないのか?

そんなネズミのケンカみたいな輪に入らず、床に寝転んでハナクソほじってそれを笑って眺めているやつのほうが、よほど勝者っぽいんじゃないかと、ぼくはおもうが。

 

とはいえ、念を断つのは、むずかしいのも事実。

でも「数分間」なら、できるのかもしれない。

その数分間をなんどもくりかえしていくうちに、いつかポイっと捨てられる日もくるのかもしれないね。

願わないひととき。

念じないひととき。

欲しがらないひととき。

そういうひとときが、ひとを健康にする。

 

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