掃除という筋トレ

ぼくはとりえあず筋トレをしておけば調子が良い。

ということに最近気がついたところである。

そして本日あらたに気がついたのは、「掃除は筋トレである」ということである。

 

掃除といっても、掃除機でガーとやったり、棒のついた道具で床をダーと拭くやつではない。

古式ゆかしい「濡れ雑巾で床を拭く」というやつである。

うちには部屋が全部で5つあるが、それらの部屋の床を雑巾で拭きまわると、筋トレよりも筋肉痛になることがわかった。

それも、全身がである。

ダンベルを用いた筋トレや腕立て伏せ、腹筋・背筋・スクワットなどの自重トレーニングも良いのだが、どうやらそういうのはずいぶん偏った体の使い方をしているようである。

考えてみれば筋トレの動きというのは「筋トレ専用」である。

普段の生活において、腕立て伏せのような動きというのは、ふつうはまず行わない。

スクワットやダンベル、腹筋背筋などもそうである。

筋トレの根本理念は「部品の強化」ということのようである。

人体を筋肉という「部品」に分割し、それぞれの部品を個別に鍛錬するという思想である。

むろんこれはこれで効果はあるのだが、全身をまんべんなく鍛えるということになるとかなり難しいようである。

難しいから、専門のトレーナーという職業があるのだと思う。

 

最近は本も購入し、1日おきではあるがまじめに筋トレをやっている。

しかし家全部の床を雑巾で拭くと、筋トレのとき以上に全身が筋肉痛になったのであった。

おかしい。

あの20kgのダンベルや数十回の腕立て伏せは、いったいなんだったのだろうか。

ぼくは結局、どこも鍛えられていなかったのではないか?

という絶望的な疑問が浮かぶ。

 

なんのことはない。

「掃除は高負荷の筋トレ」だったのである。

「ベッドの下にうつ伏せに潜り込み、腕を最大限に伸ばして床を拭く」というような動作は、通常の筋トレには存在しない。

「つま先立ちになって、腕を最大限に伸ばし、プルプルしながら窓の高いところを雑巾で拭く」というような動作は、通常の筋トレには存在しない。

「大量の水の入ったバケツを抱え、水がこぼれないよう注意しながら1階と2階を階段でなん往復もする」というような動作も、通常の筋トレには存在しない。

筋トレではあまり鍛えられていない部分が、掃除には意外と必要のようなのである。

また、トレーニングジムに行って厳しいトレーナーさんに同伴してもらうのではなく、家で孤独に筋トレしていると、結局手を抜いてしまうというのもある。

非常に辛い状態になると、やっぱりあきらめてしまう。

しかし掃除の場合は、そうはいかない。

床の半分だけを拭いて、

「やーめた」

とすべてを放棄できる人は、あまりいないのではないか。

もしいたとしたら、その人はかなりの大人物か、もしくはかなりのダメ人間なのではないか。

通常掃除というのは、やりはじめたら最後までやり抜くものである。

手を抜いてもよいのだが、手を抜いた場所はいずれあとでやらなくてはならず、結局困るのは自分なのである。

先々のことを考えたり、あるいは目指す清潔な空間のイメージがある限りは、掃除をしようと決めた範囲については、完璧ではなくともひととおり全部掃除を終わらせるものだと思う。

だから、意外と無理をしているのである。

腹筋運動をしていて、ほんとうは20回やらなくてはいけないのに、17回でやめてしまってもあまり「しまった」とは思わない。

しかし、一部屋拭き掃除を忘れていたら、かなり高品質な「しまった」を感じる。

正直に言ってもうヘトヘトで、いますぐにでも全部やめてしまいたいのだが、そこだけ残していると非常に気持ちが悪い。

それにいわゆる「せっかく」というケチくさい感慨も出てきて、なんだかんだいって、結局やってしまうのである。

 

筋トレも、ほんとうはそうしないとダメなのである。

「限界からのあと2回」が、筋肥大化のためのコツなのだそうである。

しかし筋トレで毎回「限界からのあと2回」を実行していると、だんだん寂しくなってくる。

「おれはいったい、なにをしているのだろうか」という、今後の将来に関する不安や、存在に関わる根源的な不安さえ顔を出してくるのである。

というのも、筋トレというのは短期的に生産的ではないからである。

もちろん筋肉の強靭化やダイエット、スタイル維持など、筋トレには目的があり、さまざまな効果もあるのは確かである。

しかし残念ながら、その効果を得られるまでには数ヶ月、数年という長い期間が必要になる。

短期的な視点で見れば、筋トレというのは非生産的に見えてしまうのである。

ひとことでいえば、あまり役に立っていないような気がするし、とても無駄なことをしているように感じてしまう。

 

いっぽう、掃除というのは「やった瞬間に変化を感じられる」のである。

わたしが拭いたその箇所は、拭く前に比べて、その瞬間に明らかな変化がある。

掃除を完遂した直後は、明らかに家の空気が変わったことを感じる。

家族もよろこび、家のメンテナンスにもなり、健康にも一役買う。

実質的なメリットが数多くあるのである。

よって、「よっしゃあ」という「終わった感」「成し遂げた感」がひとしおなのである。

しかしベンチプレスで100kgを持ち上げたとしても、あまり「成し遂げた感」は感じられない。

なぜならば、なんの役にも立っていないからである。

筋トレというのは結局「自分のため」であるし、ダンベルをブンブン振り回したとしても、家はいっこうに清潔にはならないし、だれも喜ばない。

筋肉ムキムキになっても、じつは一番喜んでいるのは自分だけで、他人は関心がないか、むしろ気味悪く思われることさえある。

筋トレにハマってムキムキを目指している人に対して感じる、ある種類の気色悪さというのは、おそらく多くの人が認めるところであろう。

なんか、きもちがわるいのである。

なぜか。

おそらくは、「じぶんのことばっかり」だからではないかと思う。

なにもしていないのと、同じなのである。

だからどうしても「成し遂げた感」が低い。

おれはこのように、だれの役にも立たない、おのれの肉体のためだけにこうして時間を費やしていて、ダイジョウブなのであろうか。

おれは、こんなことをするために生まれてきたのであろうか。

このような利己的な指向性を持って生きていって、将来はダイジョウブなのであろうかと、すこしだけ不安を感じるのである。

しかしこの不安は「筋トレによるハイテンション」によって結局は打ち消されるのであるが、この行動原理はまるで「泥水を入れて洗濯をしている」ような感じがして、少々の違和感を感じるのである。

 

掃除については、もはやだれに恥じ入ることもない。

やったぶんだけ成果があり、成果のぶんだけ、みんながよろこぶ。

自分のためにもなり、家族のためにもなり、からだは鍛えられ、精神は整理され、気分は爽快となり、達成感を感じる。

掃除という筋トレは、ゆめゆめ侮ってはならない。

すくなくも、週に1回は「家全体の雑巾がけ」をしようと思う。

毎日歩いて、毎日掃除しておけば、だいたいのことはダイジョウブのような気がしてきた。

 

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