こどもは世間様に育てていただく

我が家の家系の教育方針は「〔つ〕がつくまでは、子どもは家畜のように厳しく育てよ」というものであった。

つまり9歳までは幼少の頃から善悪観念、礼儀、約束を守ること、常識などを、張り倒しながら、ぶん殴りながら教育していくのである。

ぼくも結婚し娘が生まれたとき、母親の方も賛同していたので、同意のもとにこの家訓に従って教育した。

(殴ることはしなかったが)

 

ぼくは子どもは好きだし、むろん憎くてそうしていたわけではない。

「子どもというのは、そうして育てなければならない」という固定観念があったのである。

そういうふうに育てると、当然ではあるが、わが子はとても真面目で勤勉になった。

そのかわりに、あまり笑わない子になり、ふだんから暗い顔をすることが多くなっていったのである。

 

その後ぼくはパニック障害になり、結局は離婚し別居することになった。

当時5歳だった娘は月に1回ぼくに会いに来ることになっていたが、そのころに娘と接していてフト思った。

「この子はいったい、誰が育てるのだろうか」

最初の頃は離婚したとてわが子はわが子、やはり責任をもって厳しく育てなければならない、と考えていた。

しかし、ぼくはもはや離婚して親権を放棄しているのだから「ぼくが育てる」という概念は無効ではないか。

あの厳しい教育方針はいまだに前妻が継続しているようだから、月に1回しか会えないいま、この子にとっては、ぼくという存在は「逃げ場所」にしてあげたほうが良いのではないか。

ぼくの家は「教育をされる場所」ではなく、「遊びにいく場所」にしてあげたほうが良いのではないか。

そんなことを考えているうちに、ある日ふと天啓というか、ズドーンとひらめいたのだった。

 

「こどもは親ではなく、世間様に育てていただくものである」

 

そうだ!

親というのは基本的に最大2人しかいない。

2人がいくら知恵を絞ったところで、「世間様」のひとの数には到底及ばないではないか。

それにいまのぼくを振り返ってみても、三つ子の魂百までというからたしかに親の影響は大きいが、学校や会社など「家の外の世界」で経験してきた影響のほうが圧倒的に大きい。

ぼくはたしかに両親に育ててもらったのだが、「世間様にも育てていただいた」のである。

いまのぼくは、親の教育だけで成り立っている存在ではない。

 

「この子は、世間様に育てていただこう」

 

そう決心した瞬間、突如として、わが子がとてもとてもかわいい、愛すべき存在になった。

「ぼくがなんとかしなくてはならない」という強迫的な責任感の対象ではなく、「可愛がり、愛で、成長をよころぶ」存在に一転したのである。

そこからのぼくは、もはや「好々爺」となった。

わがままOK、だらしないのOK、勉強せんでもOK、ルーズOK、サボりOK、苦手があってもOK、好き嫌いがあってもOK、愚痴OK、なんでもOK。

おまえは、すきなことを、すきなようにして、とにかくにこにこしていてくれ。

そういう方針に変更すると、これまた輪をかけてわが子は可愛くなっていくのであった。

あまり笑わない娘も、このように方針転換をした結果、よく笑う、健康で明るい子どもに変わっていった。

そして勉強なんかまったく強制しないのに、嬉々として勉強をするようになり、成績優秀で返済無用の奨学金まで取得するほどになった。

「子どもは世間様に育てていただく」

これは正解だと、強く確信したのだった。

 

ぼくの代で「〔つ〕がつくまでは家畜のように育てよ」という家訓は破棄された。

厳しく育てることには、たしかにメリットはある。

ルール遵守などの基本性能だけでなく、「じぶんで考える」「じぶんで判断する」「自律的になる」「他者に依存しない」という特性がばっちり身につくのである。

これは「ひとりで生きていく」つまり個人主義の養成のためには、とても都合の良い特性である。

しかし裏を返せば「悪い面もすべて受け止める」ことになる。

子どもにとっては、親こそが「世界のすべて」なのである。

その「世界」が、厳格で、誤謬をゆるさぬ、狭量で、おそろしい世界であったなら、子どもはいったいどうなるであろうか。

「おそれる子」「怒れる子」になっていくのである。「信じない子」になっていくのである。

そして、人間にとってもっとも重大で重要な特性、

「共生・協力・信頼」

という機能を身につける機会を大幅に失っていく。

 

だからといってむろん甘やかせば良いということではないが、厳しくしていれば良いということでもない。

というと、かならず「厳しさと甘さのバランスが大事なのです」などという、わかったような気はするが、よく考えたらなんのこっちゃ全くわからないポエムみたいなことをヌカっしょるのが出てくるのである。

ちがうよなあ。

「この場合は厳しくて、この場合は甘くする」などという、小手先の、ずるくさい、血の通わない、まるでマニュアルのような、理屈一辺倒の方法論的な接し方をしていたら、その子はたぶん「感情」を失うであろう。

つまり、本物のバカになるであろう。

ふつうに人として付き合えば良いのだと思うのである。

子どもが腹の立つことをすれば怒り、約束を破れば怒り、盗んだり壊したりしたら怒り、つまり親友と同じように接すれば良いのだとおもう。

叱る、ではなく、怒る、で良いのだと思う。

たかだか2〜30年ぐらい年上なだけのくせをして、「叱る」などとエラそうなことをヌカっしょってからに、ちょっと傲慢なのではないのか。いったい何様のつもりか。

子どもがまだ未完成な人間であるのと同様に、親だって全然まだまだ未完成な人間なのである。

目くそ鼻くそ同士のくせをして、「導く」とか「叱る」とか、うるせえわなあ。なんなんじゃその気色の悪い考え方は。腹壊すぞ。

家庭は劇場ではなく生活の場なのだから、大根役者がへたくそな演技で台本を読むようなことをして、いったいなにが、だれが面白いのか。

愛するということは、本気で怒るということである。

 

子どもは、世間様に育てていただく。

そう考えた瞬間、親子の関係性は垂直から水平に変わる。

 

家族とは、ともに協力して生きていくための集団である。

協力と共生には、水平性が必要である。

垂直性が必要なのは「戦う」ときである。すなわち軍隊である。

鼻くそのくせして家庭を軍隊にしたいのなら、叱るとか導くとか教育するとか、そんなエラそうなことを考えていれば良いのだと思う。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です