ぼくはどうも、結局なんだかんだいって「肉体メイン」でものごとを考えてしまう傾向があるようです。
たとえば今回のように、発熱して、おなかや関節が、とても痛くなった。
「風邪だ」
そう思って、まずはこういうことを、します。
・あったかくして、寝る。
・消化に良いものをたべる。
・水分をよくとる。
・栄養価の高いものをとる、あるいは、絶食する。
・視神経などを興奮させないように、テレビやインターネットは控える。
・神経をやすめるために、あまり難しい本は読まない。
やっていることは、たぶん間違ってはいないと思いますし、ヘンなことはしていないと思います。
でも今回の発熱が「心因性発熱」であった可能性を知って、「あっ」と思いました。
ぼくは「肉体からのアプローチ」に終始する傾向がある。
パニック障害や自律神経失調症など、ぼくには神経系の不具合があります。
これを治そう、あるいは改善しようと、10年以上、いろいろとがんばってきました。
しかし残念なことで、完全に治ったとは、いかないのです。
マシになっているのは確かですし、副作用とでもいうべきか、関係ないところが調子よくなったりもしています。
しかし総合判定としては、すくなくとも「完治はしていない」。
思うに、ここまで長い時間がかかってしまっているのは、その「アプローチのコンセプト」がズレていたのではないか。
ふと、そんな気がしたのです。
確かにいろいろなことを行ってきました。
でも結局はすべて「物質レベル」で、ぼくは考えているのです。
栄養素、骨格、神経、内蔵、呼吸、血行、ホルモン、循環、血液、などなど。
いわく、
姿勢をよくすれば、肋間筋が広がって、呼吸が深くなり、換気能力が向上し、脳への酸素供給が豊富になるのではないか。
筋肉を柔軟にすれば、神経の興奮レベルが下がり、血流も良くなり、全体的な機能向上が期待できるのではないか。
ある種のミネラルを摂取すれば、神経伝達がスムースになり、神経の異常興奮を防げるのではないか。
ある種の呼吸法を行えば、腸内でのセロトニン生成が活発になり、神経系の不具合に効果があるのではないか。
云々、云々。
ぜんぶぜんぶ「医学の受け売り」「科学ごっこ」なのですよね。
いま、ぼくが感じている不具合は、なにか。
それをすなおに、客観的に見つめれば、そこに「神経」「血流」「呼吸」「骨格」などという、医学用語は決して出てこないはずなのです。
ぼくが抱えている不具合は「こころ」です。
ぼくは、こう考えていました。
「肉体の問題を解決すれば、こころの問題も解決するだろう」
心身不二ともいいますし、必ずしも間違った認識ではないと思います。
しかしこれは、ひじょうに偏った視点ともいえます。
こころとからだは、お互いに影響しあっています。
ということは、肉体をどうこうすれば心が必ず変わるとは、決して言えないのですよ。
そんなふうに、まるで接着剤でくっつけたかのような、密接な関係性ではない。
あくまで「影響することがある」程度なのですよね。
あまり詳しくないのですが「霊主体従」という考え方があります。
ぼくがあまり好きではない、スピ系の考え方によく見られますね。
これを迷信的なものと捉えると、ひじょうにマユツバ的に見えます。
ぼくがスピ系に親和性を見いだせないのは、それを主張する「人」に、妄信的なひとが多いからです。
全員とは、もちろん言いません。
しかしブログや書籍、イベントなどでこれを大声でいうひとたちの多くに、正常な視点が全く見いだせないのです。
オーラがどうこういう人に限って、オーラがとてもきたない。
恐怖と不安を抱えた、ねずみのような心情が垣間見えてしまう。
病気を治そうと思って、そういった世界にも足を踏み入れてみたこともありますが、とても脆弱でたよりないエネルギーしか感じられませんでした。
人間を、根本的に元気にさせるエネルギーが、ない。
だから敬遠していたところもありますが、この「霊主体従」という考え方は、とくにこころの不具合に関しては、とても参考になると思うのです。
ぼくの思想には、「体主霊従」みたいなところがあります。
カラダ方面、物質方面をどうこうすれば、きっとココロも変化する、よくなる。
そんなふうな考え方でした。
しかしこの方式では、もう限界かもしれない。
つくづく、そう思うのです。
「こころ」を元気にしようとしているのに、どうして、ビタミンという「化学物質」なのか。
「こころ」をあかるくしようとしているのに、どうして、セロトニンという「化学物質」なのか。
こころの栄養。
それはおおむね、物質ではないものです。
よい音楽を聞いて、こころがふるえた。
それを何も、音波だの、神経反応だの、そういった「物質レベル」にまで引き下げて解釈し、理解する必要なんかないのではないか。
いい音楽は、いい音楽。
もうそれで、十分なのですよね。
というよりは、むしろ、そのほうが正しい認識でもあります。
なにもわざわざ、言語化する必要さえないです。
中途半端に勉強したからだと、思うのです。
医学部に行ったわけでもないのに医学をかじり、生化学系の研究をしたこともないのに生化学系をかじる。
体系的に学ばず、あちらこちらから無作為に集めた情報で、事象を解釈しようとする。
そんなもの、うまくいくわけがない。
それに、そういうことをするから「物質が主」「肉体が主」という哲学を、唯一の考え方として持ってしまったんだろうと思います。
ほんとうの、ほんとうは、まだなーんにもわかってはいない。
霊主体従が正解か、その逆の体主霊従が正解か。
まったくなにも、わかっていない。
それなのに「体主霊従が正解」と思い込むあたり、非科学的で、勉強が足りなかったのだと思います。
いずれにせよ、おそらくまちがいなく言えることがあります。
こころにも、栄養が必要だ。
それが芸術なのか、スポーツなのか、愛なのか、遊びなのか。
それはその人によって、変わってくる。
こころの栄養が欠如したから、こころの不具合が引き起こされるのだと思うのです。
ものごとを、物質的な側面、理論的な側面だけで解釈していると、早々に「こころの栄養」が枯渇するのだと思います。
だって、つまらないんだもの。
笑えないんだもの。
人間は、物質的な存在だけではない。
物質の対義語を霊とするべきかどうかはさておき、ぼくは確実に、そう思います。
だからこそ、物質とはちがうレベルで、人は感動するし、なみだも流す。
そしてまた、ただの切り傷よりも、物質ではない何かで傷つけられたこころのほうが、治りは遅いです。
こころというものを、物質の複雑な相互作用であると考えてしまった瞬間に、だめになる。
こころは、こころだ。
きっと、そう思うのですね。
だからこれからは、ビタミンだのタンパク質だのもいいけれど、
「こころの栄養」
も、意識して摂取しいくようにしていこうと思います。
物質とはまたちがう、アプローチ。
これも大切なことだと思います。