パニック障害は「死への恐怖症」と言われることがあります。
死ぬことを非常に恐怖し、パニックに至る。
しかし、死ぬのが怖くない人なんてそうそういないだろうから、もう少し正確に言う必要がありますね。
本当は死なないのに、死ぬと思い込む病気。
というのが正確なんだと思います。
そこで「死なないことがわかっているのなら、怖がる必要なんかないのに」というりくつは、おかしいのです。
なぜなら、発作を起こしている当人はそのとき、ほんとうに死ぬと思っているから。
だから「死なないことがわかってる」のではありません。
なので当然、怖いです。
さてしかし、ことはそう単純ではないことに気が付きました。
「死ぬかもしれない」
じつは、ほんとうに心底そう思ったことなんて、発作を起こした最初の頃の数回だけだったんですよね。
発作を繰り返していくと、徐々にですが、発作の最中でさえ「……とかいいながら、ほんとは大丈夫なんだよな」と思い始めるのです。
もちろん、そう思ったからと言って、発作がおさまるわけではありません。
しかしこころのどこかで、結局は大丈夫なんだろうという思いが出てくる。
「学習」ですね。
非常に苦しく、つらい感覚はあるものの、実際にはたぶん大丈夫であろうという気持ちもある。
だから「死を恐れている病気」とは、一概には言えないのです。
最初の数回は、まちがいなく、そうでした。
しかしそのうち、恐怖の対象がすり替わってくるのです。
もはや、恐れているのは、死そのものではない。
もちろん、死への恐怖を克服したとか、そういうことではありません。
最も怖いのは、あの肉体感覚なのです。
発作を起こしたときの、あの感覚。
全身から血の気が引くような感じ、わなわなして、息苦しく、全身が硬直する、あの感覚。
恐怖そのものというよりも、恐怖反応=発作のほうを、恐れるようになっていくのです。
恐怖そのものではなく、恐怖によって引き起こされた反応を恐怖しはじめる。
「私は、死を恐れている」のではなく「私は、発作を恐れている」に、変わっていったわけです。
ここをしっかり認識しておかないといけなということに、気がついたのです。
私はなにを、恐れているのか。
それはじつは、死そのものではなかった。
発作という肉体反応を恐れていたのでした。
ということは、ぼくの恐怖は、一部はすでに解決しているということです。
結局は、いつも大丈夫だった。
これを何百回と繰り返して、もう学習済みなのです。
だからもう救急車を呼ぶこともありません。誰かに助けを求めることもありません。
わかっているのです、じつは。
どうせ大丈夫
だということが。
恐れているのは、もはや「発作の苦しみ」に変わっている。
死ぬからじゃないんです。死なないことは、じつはもう知ってる。
とにかく、苦しい、それがイヤなのです。
死なないとわかっているはずの発作を、なぜ恐れる必要があるのか。
それは、それほどに苦しいからです。
しかし。
じつはぼくは、「苦しいから恐れている」ということもまた、あまり正確ではない気がしています。
恐れるというのは、それが起こるという可能性に意識が集中しているからです。
まったく意識していなければ、恐れることはないのです。
ではなぜ、意識してしまうのか。
それはじつは、ものすごく単純なことだったのではないかと思うのです。
治そとうする努力
これこそが、最大の意識集中だと思うのです。
パニック発作の原因は、自律神経失調症である。
だから自律神経の失調を治すことが、まず肝要である。
そのような演繹によって、とにかく健康になろうと努力をするわけです。
外に出て「黄色」を探してみる。
ふだんは気が付かなかったけど、「黄色を探そう」と思えば、じつは黄色は想像以上に景色にあふれていることに気づきます。
そう思わなければ、黄色には気づかずに生活しているのに。
治そうとするという努力は、これとまったく同じメカニズムなのです。
具合が悪いところなんて、生きている限り、いくらでもあります。
むしろ多少具合がわるいところがあるのは、生きている証拠だともいえます。
しかし「治そう」という思いは、「わるいところを探す」という意識そのもの。
ふつうなら、まったく意識の俎上に上がらなかった不具合まで、大きくフォーカスされていくのです。
黄色なんて気が付かなかったのに、黄色を探そうと思ったら、世界は黄色であふれていたことに気がついてしまうように。
意識するから、恐れてしまう。
わたしには不具合があるという意識、そしてその意識を持ち続けることが、恐怖を生み出す原因になっている。
努力するから、怖くなる。
なので、ここからは、やることがちがう。
もう「発作では死なない」ということは、わかったのですもの。
次のアクションは、こうだ。
どうせ大丈夫なので、やります。
そう自分に言い聞かせて、恐怖にあえて突っ込んでいくことなのでしょうね。
「どうせ大丈夫なんだから、ホッとして安心しよう」
そう言い聞かせて、やってみる。
そしてもうひとつ。いちばんだいじなこと。
治す努力は、もうしない。
なんとなく、じつはこれこそが、いちばんのポイントかなと思うのです。
努力するからこそ、いつまでも、じぶんの不具合に注意がいってしまう。
意識が内側に向いてしまう。
筋トレやジョギングがパニック障害に効くというのは、じつはなんのことはない、このことなんじゃないのかなと思うのです。
きつい運動をして、意識を筋肉に向ける。
徐々に成長する自分という存在に、意識を向ける。
そうすると、強くなっていく自分に興味が湧いてくる。
もっと強くなろう、もっと速く走ろう。
そういう気持ちが、生まれてくる。
するともはや、そこには「内向きの意識」が消えているのです。
「黄色」を探すのではなく「青色」を探すようになった。
「黄色」が意識にないから、気が付かない。
たまに入ってきても、無視することができる。
意識がもう、そっちに向いていないのです。
治そうとする努力は、ヤブヘビだった。
治そうとする努力をしているほうが、なんとなく安心な気はします。
でもはっきり言って、パニック障害になる人は、だいたいそこそこ健康なんです。すくなくとも、これといった病気はなかった。
健康だったからこそ、原因不明といわれて、パニック障害と診断されたんですよ。
もし心臓に重篤な問題があったら、ふつうに心臓病と診断されていたはずなのです。
治そうとする努力。
それは、じつは完全なヤブヘビなんですよね。
つつかなくてもいいヤブをつつくから、怖いヘビが出てくる。
しなくていいことを、している。
ヘビが怖いなら、うつむいてヤブなんかつつかずに、木の実をとりにいこう。水を汲みに行こう。きれいな景色を見に行こう。
そのほうが、ずっと安全です。