やっべ!
これマジでやっべ!
っていうぐらい面白い本を見つけてしまった。
まだ読み始めですが・・・
じつはずいぶん昔から、ヘンだなあと思っていたことがあります。
仏教の経典を読んでみると、どうも聖書に出てくる話と似たようなことが多いことに気がつくのです。
大乗仏典は、聖書ととても良く似ている。
そしてまた逆に、聖書を読んでいると仏典とそっくりな話がよく出てきます。
聖書はまた、上座部仏典ともよく似ているのです。
このことについては、
「人間が考えたことなんだから、最終的に似たような結論になるのはおかしなことではないのだろう」
「2000年以上の歴史があることだから、想像以上に文化的な交流があったのだろう」
というふうなところで納得していました。
真言密教にはヒンドゥー教だけではなくゾロアスター教やキリスト教、マニ教、ミトラ教、グノーシス主義などの明らかな痕跡があります。
浄土宗系仏教については、そもそも阿弥陀さまじたいが完全にイラン地方の宗教の神様です。
また禅についても道教の思想がかなり混入しています。
シルクロードを伝ってきた仏教だから、さまざまな文化が混入していることは、何も不思議ではありません。
でも逆のことは、あまり考えたことがありませんでした。
つまり仏教がキリスト教に与えた影響、ということについて。
よく考えれば、イエス様よりもお釈迦様のほうが「500歳」年上なわけで、影響のベクトルとしては、仏教→キリスト教のほうが自然ではあります。
しかし仏教のほうが柔軟性が高く、キリスト教のほうが頑固な感じもあるので、なんとなく「仏教がキリスト教を取り込んだ」ということのほうが多いのだろうと、あまりよく考えずに思い込んでしまっていました。
そこで究極の仮説なのです。
「イエスは仏教徒だったのではないか」
その発想は、ありませんでした。
Amazonで見つけて発作的に買って、実際に手にしてみて驚いた。
きっといわゆる「トンデモ系」の本の一種じゃないかな、なんて予想していたのですが、全然ちがいました。
かなり「きちんと」考証している学術書だったのでした。
仏教の信奉者が仏教の価値を高めようとして書いたものでもなく、反キリスト教主義者のキリスト教のネガティブプロパガンダでもなく、ムー系のエンターテインメント本でもなく、ましてやスピリチュアル系でもありません。
この本以外でもよく言われることですが、イエス様の生涯というのは、わからないことが多いのです。
とくに幼少期〜青年期に至るまでの記録がすっぽり抜けている。
パウロやヨハネなど聖書に出てくるイエス様以外の登場人物については当時の歴史家による本にも記載があるようなのですが、なぜかイエス様だけがどこにも存在していない。
このことから、イエス様は架空の人物だったのではないかという説もあるぐらいです。
また一方で、イエス様は青年期に「修行」に出ていて、悟りを得てから帰国しイスラエルで伝道していったのではないかという説もあります。
じつはこの説はけっこう説得力があって、ちょうどイエス様が生きていたころ、エジプトのアレクサンドリア地方に仏教の宣教団が滞在していたそうです。
イエス様は生まれた時にヘロデ王に殺されそうになってエジプトに逃げていましたが、もしかするとそのときに、エジプトの仏教徒に接触していたかもしれない。
聖書に出てくる「東方の三賢者」は仏教徒だったという説もあって、優秀な子供をスカウトに来ていたという考えもできなくはありません。
教義ではなく歴史として考えたとき、イエスという人物が仏教などの東洋思想に接触していた可能性は皆無ではないのですね。
いっぽう、いわゆる新約聖書のうちのいくつかの福音書と手紙類は完全に偽物で、その他のものもさまざまな文献を組み合わせて出来上がっているというのは今や常識です。
またキリスト教の聖体拝領の儀式は間違いなくギリシャ地方の土着宗教のものが起源だし、クリスマスがドルイド教など異教の冬至祭を取り込んだものだというのは有名な話です。
かつてのキリスト教のあの病的ともいえる異常なまでの異教排除の基本姿勢から考えて、ドグマを無理矢理に形成し信者に押し付けていったということは想像に難くありません。
「統治」という政治に利用されたがゆえに、真偽よりもドグマを守ることが優先された時期があった。
しかしこのことが、キリスト教が偽物であるということにはならないと思います。
歴史的真実と宗教的真理とは必ずしも同一ではないですし、歴史的な裏付けがある宗教が正しいとも限りません。
だから本質的には「どっちでも良い」ともいえます。
でもぼくは、個人的な野望というか、願望があるのです。
「すべての宗教の垣根を取り払いたい」
この宗教は正しくて、あの宗教は間違えている。
ドクマに心酔してそんな世迷い言をぬかす余地など、一切なくしてしまいたいと思うのです。
宗教の魂は教義ではなく、その哲学と使命にある。
さまざまな宗教も、分解してみれば結局は同じようなことを言っていることが多いのです。
なのになぜ、人を救うための宗教が原因となって、人を殺し、苦しめるのか。
なぜ人々を和合させるための宗教が原因となって、反目を生み、殺し合いを生むのか。
なぜいつも、祈りと呪詛を混同してしまうのか。
人間という生き物が持つ「業」だといえばそれまでなのですが、「垣根」のせいだというのも、多少はあると思うのです。
同じことでも、区切ってしまえば、別のものになる。
別になったら、善悪や正邪というレッテルを、どうしても貼りたくなる。
自分が属していないほうを「悪」とすれば、相対的にじぶんが「善」になった気がして、安っぽい優越感に浸れてしまうのが人間というものです。
もし、イエス様が仏教徒だったら。
「垣根」が、一気に崩れてしまうじゃありませんか。
ぼくは正直「そうだったらいいのに」と思いながら、この本を読んでいます。
もっと世界は仲良くなれるはず。