坐禅をはじめてから40日を過ぎて、最近思うところがあります。
「思う」っていうことは無念無想ではないので、まだまだ甘ちゃんでありますけれども。
坐禅は只管打坐ということで、四の五の言わずに考えずに、ただ坐れ。
これを守っているつもりではあるのですが、いままでどうしても意図していたことがありました。
「リラックス」
ぼくは自律神経の具合がわるいので、できるだけリラックスしよう、のんびりしよう、そういう意図を持っていたところが正直あります。
1ヶ月ほど坐禅を続けていくうちに、ふと思うことがありました。
「坐禅というのは、自然や宇宙と【一致】することなのではないか」
それが具体的にどういうことなのかはわからないし、ぼく自身が自然や宇宙と一致したという感覚を持ったわけでももちろんありません。
ただ、合一とか、融合とか、参入とか、覚醒とか、そういうことじゃなくて、ただ「一致」なのではないか、という気がしたのです。
もちろん、これが合っているのかどうかもわかりません。
そこで、だからぼくがずっと意図していた「リラックス」というのは、これは少し方向性が違うのではないか、と感じたのです。
自然や宇宙というのは、やさしい側面ばかりではありません。
とても峻厳で、パワフルで、強烈な側面も持っています。
そしてぼく自身は生来どちらかというと「やさしい」タイプです。
あまり攻撃性がなく、和平や柔和というのが強い傾向があります。
「一致」するためには、そのような「和(なごみ)」の要素だけではなく、「厳(いわお)」の要素も必要なのではないか。
このように、「~~ために」という考え方は坐禅への取り組みとしては誤っているのかもしれません。
目的もゴールも定めない、というのがルールだからです。
しかし「仁王禅」という考え方があるのを知って、はっとしたのです。
坐禅というと、やはりぼくのようにリラックス、のんびり、ゆったりという方向性をすすめることは多いです。
しかし鈴木正三さんという禅師は、そのような禅は不毛であるとして「仁王禅」という禅風を打ち立てたそうです。
仏道の修行とは、仏像を手本にして修すべきなのだ。仏像というのは、初心者が如来の仏像を目に付けても、如来の坐禅には及ぶことがない。ただ、仁王や不動明王の像などを目に付けて、仁王の坐禅を行うべきなのだ。まず、仁王とは仏法の入り口であり、不動明王は仏の始めだと知るのだ。だからこそ、仁王は(お寺の)門に立っていて、不動明王は十三仏の始めに置かれているのである。
やさしさ、いやし、いつくしみ、愛、慈悲。
そういった「やわらかいところ」をメインにしたがるのが、人の常です。
でもそんな「やわらかさ」は、根っこに盤石で強大な意思と決意と覚悟がなければ、なんの役にも立たないばかりか、じぶんのこころを痛めつけてしまう可能性もありますもんね。
とても危険なところがあるなと、これは禅とは関係なく、日常生活でも思います。
だから思ったのです。
坐禅をするときは、ぼんやりするんじゃなくて、カッと意識をハッキリさせておこう、って。
姿勢を正して、アゴを引いて、胸を開いて、腰入れて、身も心も、ビシっとして。
ゆるゆる、ほんわか、にこにこではなくて、「闘う」ぐらいの気持ちでやろう、って。
やさしさと厳しさが、ちょうど同量にバランスが取れて、はじめて「一致」ができるような気がしたんですよね。
ぼくには、厳しさが、すこし足らない。
仁王さんや不動明王のような、強さが足らないように感じるのです。
強さがなければ、自分に勝てない。
そしてやさしさは、強さとまったく、正比例する。