比較しない・関連づけない

ああ、今日はなんだか、体調がわるいなあ。

そう考えた瞬間に、ずっと具合がわるくなることがあります。

パニック発作なんかも、これです。

最初はちょっとした違和感だったけど、それが病気なんじゃないかとか、突然死とかいうワードと紐付いて、つよい恐怖にさいなまれる。

 

パニック障害もそうだけど、神経症のほとんどは「比較と関連づけ」という、人間ならではの情報処理能力によって生まれているのですよね。

体調がわるい。

よくよく考えてみれば「いまの体調」はそれ自身ですでに完結しているのだから、本来は良いも悪いもないのです。

体調は「比較」することによってはじめて、良い・わるいが生まれます。

きのうに比べて、体調がわるい。

若い頃に比べて、具合がよくない。みたいな。

 

よく「人と自分を比べるな」といいます。

人と比べるから、じぶんが劣っているように感じたりもするし、嫉妬の感情も生まれる。

自分は自分なのだから、いちいち他人と比べなくて良い、という論法です。

たしかにそうで、苦しみの多くは「比較」からうまれる。

そういう意味では、「自分自身とも比べない」というのも、必要なことなのかもしれません。

元気だった過去と、現在を、いちいち比べなくて良い。

昨日と今日を、いちいち比較しなくてよい。

昨日は昨日で、今日は今日、明日は明日だからです。

 

関連付けも、そうです。

神経症や統合失調症の症状として、「連合弛緩」というのがあるそうです。

確か、ものごと同士の連合がゆるくなって、関係のないもの同士を結びつけてしまう、ということだったと思います。

これはたとえば、風水などに傾注している人にも見られます。

わたしに彼氏ができないのは、寝ている枕の向きのせいだ。

わたしがの金運がわるいのは、トイレの方角がわるいからだ。

当然そこにはほとんど一切関係はないのですが、「方角と幸運」に緊密な関係がある、と考えてしまうのですね。

これはつまり、連合弛緩が起こっているということです。

電磁波に関する言説も、ほとんどこの症状だと思います。

 

比較と関連付けは、人間が生きていく上で非常に重要な機能です。

男と女の差異がわからない、人とイヌの区別がつかない、自分の親とよその親の区別がつかないとなると、これは大問題です。

また関連付けが一切できないというのも、大問題です。

猫のことを「ねこ」というコトバと関連づけられない。

いくら勉強しても文字なんか読めないし、ことばさえ覚えられないです。

だから比較と関連づけは、ヒトにとってとても重要で、おそらくはかなり古く根源的な部分に関わる機能なんだろうと思います。

 

皮肉なもので、このたいへん重要な機能によって、ヒトは気が狂う。

パニック障害やウツ、各種不安神経症などは、この「比較・関連」という高度な情報処理機能が、必要以上に暴走しているのだと思います。

心配、ということじたいが、暴走なのです。

可能性はあくまで「可能性」なのに、あたかもそれが、確定するかのような妄想をする。

可能性と現実、これを関連付けてしまう。

また自分とヒトとは違う、という意識も非常に強くなるし、社会や人々と分断されたような錯覚に陥っていきます。これも「比較」機能の暴走といえると思います。

 

ちいさな子どもなどは、この「比較・関連」機能がそれほど強くはないようです。

「さっきまで泣いていたカラスが笑う」ように、過去と現在をスパっと切り離すことができる。

まことにうらやましい限りですけれども、だからといって「子どもはエラい」ということにはならない。

ただ未発達なだけで「比較関連機能を低下させたままで良かった」ということではないと思います。

 

問題は「暴走している」というところだと思うんですよね。

本来、必要不可欠であるこの能力が、暴走し、コントロールできなくなっている。

機能そのものが問題なのではなく、制御不能であることが問題なのだろうと思います。

 

おそらく、制御する練習を一切せずに成長しかたらではないか、と思うのです。

学校の学習では、この「比較と関連」の機能をどんどん強化していく傾向があります。

点数や順位をつけるのもそうですけど、なにより勉強ということじたいが、比較と関連の賜物です。

比較と関連の機能を最大限伸ばす努力ばかりして、これを停止させたり、制御させたりすることは、一切トレーニングしてこなかった。

会社に入ってからも、そうです。仕事というのも、比較と関連の機能をフルに使うものです。

比較と関連機能を、四六時中フルパワーで使っている。

そのせいで、オーバーヒートし、コントロール不能になるのではないでしょうか。

 

いったん、立ち止まる必要があるのかもしれません。

比較と関連の機能を、取り外してしまったり、無効にしてしまうのではないです。

「比較関連機能を使わない時間」

これを確保することが、成人した大人には必要なのかもしれません。

人と比べるな、といったところで、そうはいきません。

比較することは本能に属するところでもあるので、そうそう制御できるものでもありません。

そんなふうに「封じる」のではなく、「比較しない環境」に身を置く、ということで充分なのかもしれないです。

たとえばSNSとかを見ない日を設けるとか、エンタメから遠ざかる日を持つとか、ひとりの時間をつくる、とか。

 

ブルンブルンと高速回転している「比較関連機能」の振り子を、しばらく使用しない環境に安置して、おさまるのを待つ。

これがもしかすると、禅や瞑想といったことなのかもしれないな、と思いました。

比較や関連付けを行わない状態に、身を置く時間。

坐禅では「前後際断」といって、現在を過去と未来からスパっと切り離してしまえ、という。

意識は呼吸のみに置き、その他の雑念から意識を隔離してしまえ、という。

これはまさに、比較と関連という機能を「オフ」にする練習といえます。

 

比較しても、関連付けても、ほんとは自分自身は、なんにも変わらない。

わたしはいま、このままの状態で、まさにまったく、わたしである。

1日に5分10分でもいいから、そんな「際断された現在」にとどまることは、こころのリセットに有効なのかもしれません。

比較しない練習、関連付けない練習。

 

 

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