捨てるべきは、向上心だった

ぼくが抱えているストレスは、なんだろうか。

すっと考えてきてもなかなか答えが見つからなかったけど、ふと思った。

 

「向上心」じゃないか?

 

向上心というのはとても大切だと信じて、いままで生きてきました。

向上心がないのはダメ人間だと信じて、いままで生きてきました。

向上心がないのは異常だと信じて、いままで生きてきました。

 

待て待て。

ちょっと待て!

 

ぼくはもともと、文章を書くことができませんでした。

無理して書いても話のスジはめちゃめちゃで、文法もめちゃめちゃで、自分自身、いったいなにを書いているのかさっぱりわからなくなることも多かったです。

でもこのプログを5年ほど書き続けていたら、あるていど書けるようになっていました。

しまいには、あなたの文章は読みやすとか面白いとか言ってくれるひとも出てきて、最近ではデザイナーのぼくに「キャッチコピーを書いてほしい」という依頼がくることもあります。

おかしい!

ぼくはこのブログをはじめたとき、一滴たりとも「文章がうまくなりたい」だなんて、思ったことはありませんでした。

ただじぶんの病気(パニック障害)を治したくて、その日に試したことを記録として書いていっただけです。

 

ぼくはホームページをつくるのが仕事ですけど、これだって「うまくなりたい」だなんて考えたことはほとんどありませんでした。

じっさい、ホームページ制作が上達するための勉強なんか、一回もしたことないです。

ただお客さんのわがまま(要望、かな?)に必死で応えるために日々調べたり試したりしていくうちに、いつしかできるようになっていました。

 

さいきん坐禅をしていますが、最初の頃は、5分で足がしびれて、そもそも5分間じっとしていることなんてできませんでした。

タイマーが壊れてるんじゃないか、設定を間違えたんじゃないかとずっと疑いつづけていました。

しかし毎日つづけていくと、15分くらいなら全然脚はしびれないし、集中力も途切れなくなりました。

最近は18分ぐらいに伸びてきています。

そしてここが重要なポイントなのですけど、今回の坐禅については、目的を持たないことにしたんです。

以前やったときは、副交感神経を優位にしようとか、パニック障害を治そうとか、そんな「目的」をもってはじめました。

そのときは結局、10分より長くできませんでしたし、1ヶ月しないうちにやめてしまいました。

しかし今回、「只管打坐」をできるだけこころがけて、目的もなにも持たずに、ただただ座るということをしていたら、苦痛なくながく続いたし、時間も伸びていました。

 

しかしいっぽう、10年近く続けているのに、結果が出ていないものもあります。

パニック障害を治すこと。

ぼくは、いっしょうけんめい、これを治そうとしてきました。

良いという噂があれば、なんでも試してみました。

しかし結局、ぜんぜん治らなかったのです。

どころか、いままでなかった外出恐怖症とかが出てきたり、自律神経がぐっちゃぐちゃになっていきました。

 

英会話も、いっしょうけんめい勉強しました。

英語がらくらく読み聞きできたら仕事にも役立つかもなと思って、なんどもなんども試したのです。

しかしこれも結局、全然身につきませんでした。

単語ひとつ、おぼえてやしないんだもの。

 

柔道は、学生の頃からまじめにやってました。

うまくなろう、強くなろうと思って、練習してきました。

でも結局は、腰や肩や首をいためただけで、それほど強くはなれませんでした。

10年間くそまじめにやったのに、ぼくは2段どまりです。

あちこち関節をイワしてしまったので、お医者さんからは柔道はもうよしておきなさい、と言われてしまいました。

 

こんなふうに、いろいろ思い返してみると、「向上心」をもって挑んだことは、けっきょくなにひとつ思わしい結果が出ていないのでした。

いっぽう、たいして目的もなく、向上心のかけらもなく、ただただ続けてきたことこそが、明確な結果を生み出していたりするのでした。

 

なんなんだ、これは。

 

ひとつだけ、確実に言えることがあります。

向上するために必要なのは向上「心」ではなく、続けることだった。

向上心なんか、いっさい関係なかった。

 

「向上したい」という気持ちなんか、結果にはなにひとつ影響していなかったのです。

考えてみれば、当然ですけどね。

向上したいと思えば向上できるほど、この世の中はうまいことできていなかった。

そんな甘くねえや。

向上したいと思う、思わないに関係なく、「やったこと」だけが、チカラになって、それが結果を生み出している。

向上「心」なんていうのは、オマケにすぎなかったんだ。

向上心さえ持てば物事を継続できるほど、人間はうまいことできていなかった。

継続するためには、興味より習慣、あるいは「のっぴきならぬ事情」が必要です。

てめえの「心」なんて、全然関係ねーんだよなあ。

 

そして、すげー怖いこともあります。

向上心は、継続を阻害する。

向上心は、客観性を失わせる。

向上心は、よけいなことをさせる。

ひとの気持ちなんざ、そんなにずっとずっと、保たないんですよね。

なめんな!

「もっとよくなりたい」っていう気持ちが強ければいい、ってなもんでもないんですわ。

むしろそれが強すぎると、やんなくていいこと、やらないほうがいいことまで、やってしまう。

 

病気を治す努力も、まさにそこれです。

治したいという気持ちが強すぎるから、ネットや本などでいろんな仮説を読み漁り「浅く広く」いろんな方法論に手を染める。

あたりまえだけど「広く浅く」で何事か成し遂げることなど、原則的に不可能です。

なにかを成し遂げるときは、原則「狭く深く」を突き通したときなのですよね。

向上心という「欲」がつよいと、浮気性になって、飽きっぽくなって、いろんなことを試すわりには、結局なーんも残らん。

 

向上心なんて、学校とか会社が生徒や奴隷のお尻をペンペンするためのツールに過ぎなかったのかもしれないんですよね。

向上心というこころの状態は、夢想的だし、確動性が低すぎるし、なによりも、甘すぎます。

気持ちなんか関係なく、何かを継続することだけで、きっちりと向上していくんですよね。

もっといえば、ヒトというのはただ生きていくだけでも、向上していくことも多い。

ていうか、向上心を持たずにやったことというのは、動機が純粋なぶん、良い結果になることが多いのかもしれないです。

 

捨てるべきは、向上心だったのかもしれない。

良くなりたい、良いふうに変わりたい、そう思う気持ちこそが自身を縛り上げ、拘束し、わけのわからん世界に自身を放擲してしまうのかもしれないです。

興味があることを、いますべきことを、ただただ、つづける。

上達したいとか、よくなりたいとか、強くなりたいとか、結果を残したいとか、そんな「邪念」が、いつも邪魔をするんだよなあ。

捨てるべきは、向上心だった。

かもしれない。

 

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