ぼくは4年ほど前から、まじめにヨガに取り組んできました。
パニック障害や自律神経を治そうという動機だったので、かなり真剣です。
あまりに真面目なので、先生から「ヨガの先生の試験を受ければ」と提案していただいたほどです。
毎日、毎日、4年間、ほんとにまじめに取り組んだのです。
しかし残念ながら、それでもパニック障害や自律神経失調症は治りませんでした。
むしろ自律神経失調のほうは悪化している感じさえありました。
いわば「不定愁訴」とでもいうような感じで、毎日どこかが具合がわるかったり、痛んだりするのです。
愁訴は気分にあらわれることもあります。
そこでぼくは「ヨガには効果がない」という結論を、ときどき出していたのでした。
しかし。
最近忽然と、気がついたことがあります。
たしかに、症状そのものは、あまり改善しているとはいえません。
しかし冷静に見れば、改善していることもとてもたくさんあったのでした。
日々あちこちにあらわれる不定愁訴の症状に隠れていたので気が付きませんでしたが、さまざまなところが改善していたのも事実です。
たとえば、宿痾だった痔が治っていたり、肥満が治って標準体重になっていたり、偏食が治っていたり、お酒やタバコの過剰摂取が収まっていたりしています。
肝臓も元気になっていて、胃腸の調子もよく、快食快便になっています。
性格的にも、かなりいい加減だったところが変わって、ものごとをきちんと考えるようになりました。
仕事も安定してきていて、無駄遣いや衝動買いなどもなくなっています。
ただし、「不快感」だけが、ずっとずっと、消えないのです。
たまに非常に息苦しくなったり、血圧が上がるような感覚があったり、めまいがしたり、たまに心臓がヒクヒク!っとなるような、こわい症状もあります。
主に循環器系の不具合の「感覚」があるのです。
しかしどれも、病院に行けばとくに問題はない、といわれますし、長年そんな症状がある割には、結局一回も倒れて救急車で運ばれたことはありません。
だから自律神経失調症だ、という診断が下るわけです。
いや、ちがうのではないか?
ふと、思ったのです。
循環器系の病気は、あまり自覚症状がなく、突然ぶっ倒れたりして、最悪の場合は死んでしまうこともあるそうです。
だから「サイレントキラー」と呼ばれることもあるそうです。
自覚症状がない —— もしかして、これは患者が「敏感ではない」からではないか、と思ったのです。
もしかするとぼくは長年ヨガをしてきたことによって、循環器系の異常について、「ちゃんと感じ取っている」のではないか?
ヨガというのは、徹底的に内面を凝視するエクササイズです。
じぶんのからだが、なにをしたらどのように変化するかを、しっかり「見る」訓練でもあるのです。
これを、本気でくそまじめに、4年間もやってきた。
このことで、ぼくは「内面の変化」について、ちゃんと感じられるようになっていったんじゃないか。
というのも、ここ最近、ずっと心臓がヒクヒクっとなる感覚があったのです。
ただ、それで倒れそうになったり、実際に気分が悪くなることはありません。
ただ場所が場所だけに、ちょっと怖いです。
また気管支の調子もおかしく、息苦しくなったり、胸が苦しくなったりします。
しかしこの症状も病院にいけば「きれいな心電図ですね~全然問題ないです」といわれます。
こんなに、強い感覚なのに。
そこで、心臓や肺が改善するようなこと——毎日歩いたり、適度に運動をしたり、しっかり掃除するなど——をすると、この感覚は徐々に消えていくのでした。
ふつうの状態では感知できない、微細な心臓や肺の「アラート」に、気がついていたのではないか?
実際ぼくはこの夏、暑さに負けてほとんど家を出ず、座ってばかりいました。
そんなことをしていたら、心臓や肺を悪くしたって、不思議ではありません。
「ほんとうに悪くなる前に」、カラダのアラートを感じ取っていたのではないか?
そんなことを、ふと思ったのです。
まあ、あまりに自己肯定的すぎるのかもしれませんが、そもそもヨガというのが何なのか、ということを考えると、これはちっともヘンな理屈ではありません。
ぼくたちは、病が治るというのは、症状が消えることだと勘違いしています。
しかし実際には、症状というのは「サイン」であり、肉体が治そうとしている「治癒過程」でもあるのです。
だから、「ヨガをしたら症状が消える」と考えることは、明らかな間違いです。
ヨガのトレーニングをすれば内面からのサインに敏感になるので、むしろ悪いところの症状を強く感じるようになるはずなのです。
そして、その出てきた症状をきちんと治してはじめて、不具合は消えていく。
痛みや不快感はいわれなく存在しているのではなくて、原因があるから存在しています。
ヨガをいっしょうけんめいにやったのに、どうして治らなかったのか。
結局のところ、自分の感覚よりも、医者の方を信じていたからだと思うのです。
先生が「問題ない」というから、わるいのは「ぼくの神経だ」と考えたのです。
そうではなかったのかもしれません。
先生がいくら有能であっても、ぼくの内臓諸機関の微細な反応を、全部感知できるわけではありません。
また、具体的に悪くならないと、悪いところは見つけることはできません。
先生は医学のプロではあるけれど、予言者ではないし、ぼく本人でもないのです。
ぼくはしまいには「鈍感になりたい」とまで考えたことがあります。
このようにぼくが苦しむのは、ぼくの神経が敏感すぎるからだ。
しかしこの考え方は、おかしいです。あきらかに、おかしい。
ヨガという内面からの通知に対して敏感になるトレーニングをさんざんしておきながら、そのサインを感知したら、神経が異常だ、と言っているのです。
ぼく自身が、ひどい矛盾を抱えていたのでした。
ぼくはいちど、じぶんのカラダからのサインを、信じてみようと思うのです。
心臓がおかしい、と感じたのなら、それは間違いではないのかもしれません。
現時点では大きな問題はないが、その状態を放置していると、心臓に問題が発生する可能性があるということを通知してくれているのかもしれません。
症状があったら、それを真っ先に「エラーだ」と考えるのではなく、日頃の生活を振り返って、悪習慣を改めることをしていく必要があるのかもしれないです。
ぼくはたしかに、過去4年間ヨガを大変まじめにしていましたが、そのうち3年間は大量に酒を飲み、タバコも大量に吸っていました。
ヨガをすれば、悪習慣を続けていても帳消しになるわけではないのです。
ヨガは体調の微細な変化を検知する機能を強化するから、悪習慣を並行していたら、むしろそれまでよりも、ひどい不快感を感じるようになるのだと思います。
ヨガをやるということは、「生き方」そのものを変更する覚悟が必要なのだと思います。
ヨガは薬でもなければ麻酔でもないし、医療行為でもありません。
それをすれば症状が消えるという方法論ではないのです。
病気そのもの、病気の原因そのものは、ヨガだけで治るわけがありません。
悪習慣を絶たなければ、泥水で洗濯をしているようなことだから、永久に症状は消えない。
おそらく、坐禅も同じだろうと思うのです。
「いま・ここ」に強く集中する練習をするということは、じぶんの「いま」の状態を、正確に取得するということです。
だから坐禅をしたから何かが良くなるということなんか絶対になくて、現状を正確に把握できるだけで、実際の改善策はふだんの生活の中で行っていくことになるのだと思います。
だから「坐禅に功徳なし」というのだと思います。
これさえしとけば、だいじょうぶ。
これをやれば、苦しみから開放される。
ヨガも禅も、そんな「あまったれた根性」を叩き直してから、挑むべきものなのかもしれないです。
生活習慣をかたくなに変更しない人が安易に手を出すと、かえって苦しみだけが増えるのかもしれませんね。
苦しみは、違和感は、痛みは、内部からのサイン。
これを感じ取れるようになったことは、喜ぶべきことだったのかもしれません。