ぼくはいったい、何に対してストレスを感じているのだろうか。
対象はいまだにわかりませんが、「原因」のようなものはなんとなく、ぼんやりと見えてきたような。
「克服」
ぼくの中心には、この概念がデカい顔をして居座っているようなのです。
パニック障害や外出恐怖に陥って、ずっと考えてきました。
「どうしたら、治るだろうか」
治したいというのは「克服したい」というのと、同義だと気がついた。
あまりヒトに対しては、征服欲は強くないのです。
だれかを思い通りに動かしたいとか、子分がほしいとか、頂点に立ちたいとか、そんなのは子供の頃から一回も思ったことはありません。
しかし自分自身に対しては、かなり征服欲が強いようです。
ぼくは柔道を10年間していましたが、試合で勝ちたいという気持ちはあまり強くありませんでした。
でも負けたら、悔しいです。
なぜ悔しいかと言うと「思ったとおりにカラダが動かなかった」「思ったとおりに気持ちが切り替えられなかった」というところが、くやしい。
相手に負けたという結果が悔しいのではないのです。
これはエエカッコしているのではなくて、柔道仲間にもそんな人はけっこういました。
ひとに勝つことよりも「うまくなる」ことのほうが、数段うれしい。
「自己攻撃」ということばが思い浮かぶのです。
他者に対しては、攻撃をすることはほとんどないのですが、自分に対してはけっこう攻撃する。
外出恐怖になったときも、ぼくは自らを攻撃しました。
どうして、こんなことさえ、できないんだ!
足が動くのなら、外へでろ!
イヤとか、怖いとかいってんじゃねえ!
行く、と決めたら、行け!
へこたれるな!
ぼくがなぜ、パニック障害や外出恐怖症になったのか。
思うに、この「自己攻撃」の行動原理が原因なんじゃないか、と思ったりするのです。
これ以外のことでは、ぼくはあまり問題を抱えてはいません。
まさに「選択的に」いちばんややこしいものだけが残った。
いま「これ以外のことでは、ぼくはあまり問題を抱えてはいません」と書いたけど、ここにヒントがあると思うのです。
じっさいには、ほんとうに問題があるかどうかではなく「問題がないと、ぼくが思っている」のです。
つまり、関心がないということ。
問題というのは、関心を持ってはじめて、問題になる。
だから逆に言えば、ぼくが関心を持っているのは「自己制御」だといえる。
自己制御を最大の関心事としているから、制御できない自分というものが、ひじょうに巨大に見えているのではないか。
そもそもぼくの人生は「克服の人生」ともいえます。
ガキのころは、コイツちょっとアタマおかしんじゃないのっていうぐらいの「のろま」でしたが、ぼくはこれを克服した。
ひどい人見知りでしたが、これも克服した。
ひどい泣き虫で、臆病でしたが、これも克服した。
勉強は大嫌いでしたが、これも克服した。
乱暴なことや、痛いことも苦手でしたが、これも克服した。
お金を稼ぐという行為が苦手でしたが、あえて営業職を選んで克服した。
大勢の人の前でしゃべるのが苦手でしたが、これも克服した。
克服、克服、克服、克服。
ぐあいのわるいことに、この克服が、ほぼすべて「うまくいってしまった」。
自信をつけたぼくは「克服できないものなど、ない」と思うようになってしまったのかもしれません。
だからパニック障害や外出恐怖になったとき、ぼくは狼狽しました。
この世には、克服しようと思っても、なかなかできないことが、あったのです!
10年以上本気で取り組んでも、どうにもならないことがあった。
ふと、思うのです。
ぼくのこの病気は、「克服」という原理から卒業をするためなのではないか、と。
そもそも、苦手を克服するという考えには、ウラがあります。
「自分には、足りていないところがある」
という中心概念がある。
足りないと思うからこそ、それを埋めようとする。
そのままの状態の自己を、認めることができないのです。
だから努力し、苦手を片っ端から克服していこうとする。
何も足さない、何も引かない。
有名なサントリーのキャッチコピーですが、とてもだいじなことを言っているような気がします。
じぶんにも、何も足さない、何も引かない。
そのままで、じゅうぶんに、足りている。
こうして生きているだけで、すでに円満成就である。
克服するということは、自分から何かを引いたり、自分に何かを足す行動です。
この行動のウラには、明確に存在している概念がある。
「わたしは、足りていない」という概念が。
勘違いだ。
いま、こうして生きているだけで、ほとんど足りている。
足りているから、生きている。
長年治らないのは、「足りている」というあきらかな事実に、気がつけなかったからかもしれません。
気がつかないから、あれやこれやと、詰め込もうとする。
努力する、がんばる、探す、制御する、抑圧する、手に入れようとする。
もう、いい加減になさい。
知りなさい。
ぼくのなかの「ほとけさま」が、そういって警告してくれているのかもしれませんね。