ぼくはやっぱり、なにか大きな勘違いをしていたと思う。
パニック障害になったりして、仕事ができなくなってビンボーしたりしたことについて、思った。
「這い上がるぞ!」
踏ん張りどころだ、がんばるんだ!
這い上がる。
なんかこう、スポ根マンガ的な、耽美な雰囲気があるではありませんか。
ねえ。
でもほんとうは「這い上がっている」のではないのですよね。
押し上げられている。
自力で這いつくばっていっしょうけんめいウエに上がろうとしている、と思っていたけど、ほんとうは「押し上げられていた」。
結局、じぶん一人ではなにもできないんですよねー。
まわりの人が助けてくれて、持ち上げてくれている。
だから「這い上がろう」なんて考えることじたいが、アルゴリズム的に間違っていた。
そうじゃなくて「持ち上げてもらえるようにする」っていうのが、いちばん利口だよね。
自力で、とか、頼らずに、とか、そういうのって、なんか美しい。
ような、気がする。
でも実際には、それはただのオナニーでした。
ぜんぜん美しくない。
きたない。
いろんなひとと仲良くして、集まってくるそのちからに「乗る」のが、いちばんいいんですよね。
地面が集まって、山が隆起していくように。
もうすでに、持ち上げられている。
なにもべつに、そこから手を伸ばして、ウエに行こうとしなくてもよかった。
そんなことしたら、足元がスッカスカになって、あぶねえよ。
それよりも、足元にいっぱい集めてきて、それに乗るほうが安定してる。
「這い上がる」っていうのも、イデオロギーなんだと思います。
刻苦勉励的美的世界に居座る、耽美派のひとつなんですね。
どうせウエに上がる努力をするのなら、そのまま背伸びして伸び上がろうとするんじゃなくて、地面を隆起させたほうがいい。
いちいち土を集めるんじゃなくて、集まっているところに行くほうがいい。
なのにわざわざ凹んだ場所にひっついたままで動こうとせず、いっしょうけんめいそこで背伸びしたり匍匐前進したりして、それで「おれは上がっているのだ」って思ってる。
ばかじゃねえ。
どうせ努力するなら、恩を売ればいいんですよね。
与えるのではなくて、売るの。
そしたらかってに、地面が隆起してくる。
なんでこれを実行しようと思わなかったんだろう。
なんでその場所に、行こうと思わなかったんだろう。
イデオロギーだな。
苦労をすることを美徳とするような、へんなイデオロギーに染まっていたんだ。
孤立して頑張るアタシってステキ、みたいな妄想池で泳いでいたんだ。
そんなことするのは、二十歳まででいいぜ。
それ以降は隆起を探せ。
そしてその隆起を強化する賢さが必要だ。
恩を売ろう。ばんばん売ろう。
回収できないものもあるかもしれないけど、いっぱい売っとけば、そのうち回収できるものもある。
這い上がるな、持ち上げてもらえ。
気づくのが、ちょっと遅かったかなあ。