パニック障害という贈り物

最近の本との出会いには面白い傾向がある。

「いままでの知識や経験が統合されたような本に出会う」

ということである。

だから読書は面白いなあと思う。

 

いぜんこのブログでも書いたが「あなたを陰謀論にする言葉」という本がまずそれだった。

個人的にこの本は久々のヒットだった。

ぼくはもともと宗教や哲学、そして神秘思想などに興味がありそれ系の本をよく読んでいた。

またヨガをやっていたことで、さまざまな現代スピリチュアル的な動向にもよく触れていたし、右派思想の人にもよく触れていた。

その結果、ある系統の思想や哲学には近寄らないほうが良いという「明確な」結論に至った。

その種類の思想や哲学は完全に「間違えている」ことを悟ったのである。

この本にはぼくが「危険であり、決して近寄るべきではない」と判断したそれらの思想哲学が相互作用も含めて時系列的、ジャンル別に美しく整理されていて、おもわず嬉しくてハタとヒザを打ったものである。

知識としては知っていることがほとんどだったので学ぶべきところは少なかったが、情報が統合されたという意味で、ぼくにとっては大変貴重な本である。

また陰謀論的志向に傾注しがちな人が増えている近年の思想傾向に警鐘を鳴らす意味でも、重要な書籍だと思う。

 

そして今回は「祖父・多田等観が語った チベット密教 命がホッとする生き方」という本である。

この本は正直、あまり期待せずに読んだ。

内容は思い切って言ってしまえば、ややスピリチュアル思想に寄った自己啓発系の本である。

ぼくは個人的にスピリチュアルも自己啓発も断じて近寄るべきではない潮流としているのだが、多田等観という日本人で最初にチベット密教のマスターになった偉人のお孫さんが書いた本ということで、一応読んでみようと思ったのである。

内容的にはあまり目新しい話もなく、馴染みのある話のほうが多い。

だからこの本も、上記の「あなたを陰謀論者にする言葉」と同様あたらしいなにかを学びあるいは発見したということではなかった。

それよりも、驚いたのである。

ここに語られていることは、ぼくが『座禅連続200日行』を行ったときにフっと感じたことと、まったく同じだったからである。

 

ある日ぼくはなぜか、なんの目的も持たず座禅をはじめた。

パニック障害を長年患っていたが、それを治そうという動機すらなかった。

ただ「座ってみよう」、それだけである。

そしてその座禅が200日目を迎えたとき、こころに大きな変化が訪れたのである。

あとから考えれば、これはそれまでのぼくの考え方が一転してしまうような変化でもあった。

このように書くと何やら「悟り」とか「啓示」のような神秘的で怪しげな感じがしてしまうが、実際にはそんな高尚なことではない。

「あっ。そうか」

とでもいうような、なんというか、思い出した、ぐらいのことである。

そしてその内容も、べつに特段珍しいことではなかった。

 

1.ぼくの人生や運命は、神様とか仏様とかに任せておけば良い。

2.努力するよりも、目標を追いかけるよりも、「まかせる」ことのほうがずっとずっと、何百倍も大事だ。

3.パニック障害は、天からの贈り物である。

 

そんなことに「あっ。そうか」と気がついた。

なぜそんなことに思い至ったのかは、わからない。

自他ともに認める「自力本願主義・目標達成主義・無神論」のぼくが、まったく逆といっても良い方向性のことを感じてしまったことに、ぼくは驚いた。

 

とくに「3.パニック障害は、天からの贈り物である。」は、もはや意味不明ですらある。

パニック障害を患っていた10年以上の年月を、ぼくは「壮大な無駄」と考え後悔していたからである。

これさえなければ、ぼくはもっとすばらしい人生を送れていたにちがいないと考えてもいた。

 

しかし座禅を続けていくうちに、全然違うように思うようになった。

はたして、この10年間、ほんとうに無駄だったといえるのか。

もしぼくがあの日パニック障害にならなかったら、あるいは早々に治っていたら、ぼくはいま、どんな人間になっていただろうか。

「パニック障害を患った」という事件によって、ぼくに「どんなよいこと」がその後に起きただろうか。

思い返してみて、愕然としたのである。

パニック障害を患ったことはぼくに災厄どころか、むしろ大幅な成長を与えてくれていたのである。

書き出したらきりがないのだが、それらの基盤になる重大な部分は、

 

「ぼくは死ぬまで、パニック障害の人のことをバカにしないであろう」

 

ということである。

ぼくはそれまで、はっきり言って人生は順風満帆で、身体も心も強健だった。

だからパニック障害やウツ病を患う人のことを正直軽蔑していた。

可愛そうだとは思うが、しかし腹の底では「そういう人間は価値がない人間である」というようなおそろしい観念さえ持っていたのである。

しかしこの観念は、じぶんがその病に陥ることで、修正を余儀なくされた。

修正しないとじぶんの心が保たないというだけでなく、ぼく以外のそのような病気の人と接してみると、決して弱い人たちではなかったからである。

むしろ、ぼくよりも数段精神力が強いひとでさえ、そのような病気になっているという事実を知った。

ここから「弱さ」とはなにか、ということを真剣に考えるようになった。

10年かけて最終的に行き着いた結論は、

「あらゆる人には強い部分と弱い部分があり、そしてそれは変化する」

「ほかのひとの弱い部分を支えるために、わたしの強い部分がある」

という、まことにもって「あたりまえ」のことであった。つまらないことであった。

強い=善、弱い=悪、というような幼稚な二元論からはじめて完全脱却できた瞬間でもあった。

上記のことは、ぐるっと包括してしまえば「愛」ともいえる。

ひとには、愛が必要だ。

言葉にしてしまえば、なんでもないことである。だれでも言いそうなことである。

しかしこれが「本で読んで知った」「誰かから教えられて知った」ことと決定的に違うのは、「腹の底から自力で算出した」というところである。

そしてこの至極当然、なんでもないただの道徳事項に過ぎないようなつまらない意味のことは、じつはこの世界で最重要事項のひとつでもある

 

この最重要事項に到達できたのは、長年パニック障害を患ったおかげでもある。

そこでぼくは、綺麗ごとでなく、ほんとうに思ったのである。

「パニック障害に感謝しなければならない」

そしてさらに、このようにさえも思った。

「愛を気づかせるために、パニック障害が与えられたのではないか」

 

この状態に至ったとき、なぜかふしぎに、あれだけ格闘してもどれだけたくさんの医者にかかっても悪化こそすれ一切治らなかったパニック発作が、圧倒的に改善したのである。

そして、この本にも、同じことが書かれていた。

「病はギフトである。これに感謝したとき、病は消える」

ぼくがまったく別件で到達した状態のことが、そのまま書かれていたのだった。

そのほかにも同様に「パニック障害を長年患わなければ気づき得なかったこと」が、たくさん出ていた。

だから上記「あなたを陰謀論にする言葉」と同様、この本も新しいなにかを発見できたわけではなく「統合された」感を与えてくれる本であった。

 

だからこの本には真理が書かれている、とは言わない。

それは読む人による。

とりあえず個人的に断言できるのは「人生万事塞翁が馬」ということである。

一見とてもつらい出来事だって、長い目で見れば、じつはその不愉快な出来事こそが福を呼んでいたということもある。

その不愉快を「愉快」に一瞬で転じさせるためには、

「これも天からの贈り物だ」

ということを結局「信じられる」かどうかにかっている。

愛することと信じることが大切だというのは、そういうことなのかもしれない。

そして「愛と信」がとても大切だというのは、せかいじゅうの宗教が何千年も前から口を揃えて言っていることである。

「あたりまえ」なことこそが、やっぱりいちばん、むずかしいのだなあ。

  • ぽぽんた より:

    最近ね 知った言葉なのですけれど。
    「井の中の蛙大海を知らず、されど空の蒼さを知る」

    (´-`)*

    • TERA より:

      > 井の中の蛙大海を知らず、されど空の蒼さを知る

      なるほど・・・深いというか、解釈が難しい言葉ですね〜

      まず「井の中でないと空の蒼さを知ることができない」というわけではないので(井戸の外でも空は見上げることはできる)、

      これは「不自由な身ではあるが、少しぐらい情報は入ってくる」と捉えるべきなのか、

      あるいは「不自由な身だからこそ、かえって外の世界への憧れを強く感じる」と捉えるべきなのか・・・

      「狭い世界にいるからこそ狭く・深く知ることができる」という解釈もできますが、それだったら「空の蒼さ」という、井戸の外でも知ることができるようなことをわざわざ持ち出した意味がわかりません。

      「されど井戸の深さを知る」なら、わかるのですが。

      これは、どういう意味なんでしょうね・・・

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