きのうの夕方に、ふと思ったのです。
症状も、不安も、じつはパニック発作とは何も関係ないのではないか。
ずーっと思っていたのです。
パニック発作に至る「あの感覚」があります。
「あの感覚」はおおむね、自律神経系の症状です。
動悸とかめまいとか、あたまがうっ血する感じとか、手足が冷える感じとか、息苦しい感じとか。
そういう「症状」がなくなれば、パニック発作なんか出ないのに。
最初から、ずーっと思っていた。
また、こうも考えていました。
そういった自律神経系の症状が出たときには、どうしても不安を感じます。
なにか大きな病気なのではないか、もう取り返しのつかないことになっているのではないか。
そんな妄想が出てきて不安になります。
この不安こそが、パニック発作の原因なのだ。
・・・・・・。
もしかすると、ちがうのかもしれない。
じつはきのうの夕方、耳がおかしくなりました。
左耳の奥で「ボコボコっ」という音がするのです。
心臓の鼓動とは関係がないようで、イレギュラーです。
そして頭の奥の方が「きゅっ」となっている感じもある。
そしてそれは何をしても治らなくて、ずっと続くのでした。
以前ならこんな症状が出たら、いっぱつでパニック発作になっていたはずです。
「うわ、なんか頭の血管が切れそうなんじゃないか!」
脳溢血とか脳梗塞とかそういうワードがあたまのなかにいっぱいになって、もうそれで不安で不安でしょうがなくなって、動悸がしてきて、息苦しくなって、過呼吸のようになる。
そんなことはいままで、何百回と経験してきました。
しかし、おかしいのです。
そんな症状があるのに、全然発作が起きないのです。
もっともっと不思議なのは、不安もしっかり感じている、ということです。
とても不安だし、とても不快です。あたりまえです。
あたまの奥でなにか物音がしている。
こんなもの、不安にならないほうがどうかしています。
脳梗塞とか脳溢血とかいうワードも「ちゃんと」出てきています。
でも、ならないんですよ。発作に。
「不安をコントロールできている」とか「不安を押し返している」とかではないのです。
しっかりと、ちゃんと、不安なのです!
症状も、ちゃんとあるのです!
これと似たようなことで、あの「ワーーーっとなる感覚」。
どういったらいいのか、これは形容のしようがないのだけれども、なにか炎症をしているような、そんな感覚。
これがトリガーになってパニック発作に陥ることはよくあります。
これも同様で、とっても不快で、とっても不安。
でも・・・発作に至らないのです。
なんどもいいますが、「不安をコントロールできている」とか「不安を押し返している」とか「感情や神経をコントロールできている」とかでは、いっさいないのです。
しっかりと、ちゃんと、不安だし、不快なのです!
とても、とても、不安なのです!
どういうことか。
これはつまり「不安や症状はパニックとは関係がない」ということの証左なのではないでしょうか。
というか、そうでなければならない。
だって世の中にはものすごい気が弱い人、不安がりの人はたくさんいます。
また大きな不安を抱えているひとも、数え切れないぐらいいます。
でも、そういうひとが全員パニック障害というわけではないのです!
またいっぽう、パニック障害の人が必ずしも気が弱く臆病であるということもありません。
むしろパニック発作を数限りなく繰り返すことで気弱で臆病になっていくというほうが正しいかもしれません。もともとは特に心配性ではなかった人も多いです。
このことも不安や症状とパニックには関連がない、ということの証明ではないのか?
つまり、こういうことなのかもしれません。
パニックとは、独立した反応である。
その状態に至った直後にいつも強い不安を感じていたから、不安とパニックは関係がある、というふうに認知してしまっただけなのではないか。
不安や症状が先でパニックが後なのではなく、
じつはパニックこそが先で、そのあとに不安が追従し、各種症状と意味を結合させていたのではないか?
物理的な炎症ではないのか。
どこでということはわからないのですが、何らかの原因によってある特定の部位に炎症が発生したときに、パニックに陥るのではないか。
そしてじつはその「パニック反応」こそが先にあって、それを刺激としてあとからいろいろな妄想が浮かび、不安になっているのではないか。
不安を感じて発作を起こすということはじつは少なくて、ほんとうはパニックのほうが先に起こっているほうが多いのではないか。
よくよく自分の反応を観察してみると、確かにそのような傾向があることに気づく。
むしろ、そうでなければならないのです。
それこそ病的に臆病なひと、健康に病的に気を使うひとはたくさんいます。
とくに日本人にそういう人は多いです。
でもそういうひとがみんなパニックになるわけではない。
「不安だからパニックになる」という固定観念に支配されていたということはないか。
この病と戦うとすれば、不安を減らすとか、不安に強くなるとか、死の恐怖乗り越えるとか、妄想をへらすとかそういう努力は、もしかしたらほとんど関係がないのかもしれない。
あなたは、あなたのままで良い。
わたしは、わたしのままで良い。
だれも、なにも、変わろうとしなくてもよい。
むろんそうしてもいい、でもそれとこれとは関係のない話である。
どこかの「炎症」さえ起きないようにすることが——それが炎症なのかどうかもあやふやだけど——まず一番目に必要なことではないのか。
だから掃除だ、というつもりはありません。
だってそれがほんとうにアレルギー性の炎症とは限らないかもしれないからです。
でも掃除を徹底的にするようになってから、不安とパニックが分断された感じはあります。
それに体調そのものは、べつに良くなっているわけでもないし、自身の健康に対する不安が消えたわけでもないのです。
だからこそ、思うのですよね。
症状も、不安も、パニックも、じつはそれぞれ別個の存在だったのではないかと。
そして症状を消すことや不安を消すことは、本質的には意味のない努力だったのではないかと。
あたりまえなのです。
人間は不安を感じる生き物で、神経があるからこそ症状もある。
この世に不安のない人間などいない。病気のない人間などいない。
一病息災、症状は何かを治しているサインである。
だから不安を消すこと、症状を消すことは、病気云々はさておきそもそも無理のある行動である。
そのままでよい。
なにも無理に変えなくてもよい。
がんばってじぶんを変えなくてもよい。
そんな気が、少ししているのです。