今日はあったかいなあ。
はぁ~るのぉ~、うらぁらぁのぉ~~、
……ってだから「うらら」って、なんなんだようー。
などと、思ったり、思わなかったりしながら、風呂に入っておりました。
湯船でからだの伸ばせる部分はすべて伸ばしながら、あーあ、などとあくびをしておりましたら、
「はうっ!」
と、気がついた!
これはもう、ぼくにとっては「大発見」だったかもしれません。
それは、
「性格なんて、存在しない」
ということ。
なんかしらんが、はうっ! と気がついた。
パニック障害の原因に、そのひとの「性格」ということがよくフォーカスされます。
いわく、
まじめである。
やさしい。
よく気を使う。
神経質である。
完璧主義である。
などなど。
待て待て待て。
ちょっと待てコラ!
これぜんぶ「便宜分類」なんですよね。
タグとか、インデックスとかいうものにすぎない。
だれかのことを理解するのにそうしたほうが「ラク」だから定義したものです。
たとえば、ぼく自身はたしかに神経質なところはあります。
本とか書類がランダムに歪んで整理されていると、いらっとする。
ピシーと揃っている方が気持ちいので、そういうふうにします。
では、じゃあぼくは「神経質」だろうか。
いぜんもここに書いたことがあるけれど、ぼくにはとんでもなくいい加減なところがあります。
汗水たらしてホコリひとつないほどきれいに掃除をしたのに、おもむろに椅子にゆったりと腰掛けて、鼻くそをほじほじ。
で、その鼻くそを、床にピッ!
あははははー! 床にピッ!
コラーー!
気づいてからさすがにもうそういうことはしなくなりましたが、ぼくにはそういうところがある。
ほかにもいろいろ「雑なところ」があるけれど、書き出したら枚挙にいとまがありません。
だからぼくのことを「神経質である」というのは、適切ではないです。
あと「臆病ものだ」と自分で思うことがあります。
しかし友人知人からの客観的な評価でいくと、ぼくは「動じない」人だというのです。
目上のひとにでもすぐに食って掛かるし、ヤンキーみたいな人にもビビらない。
仕事で大失敗をしたとき、周囲は「あいつもう辞めるんじゃないか」ぐらい心配したそうなのですが、ぼくはじつは全然落ち込んでいませんでした。
「べつに死なへんがな。誰も殺しには来ないもの」
おおげさではなく、ほんとうにそう思っていました。
実際にコトが起こってしまうと、案外ハラが座っていることがある。
「臆病なところがある」というのは、たしかにそうです。
でもぼくの性格を「臆病である」とは、いいがたい。
そしてなにより、ぼくはパニック発作を何千回と繰り返してきました。
もう死ぬ、もうだめ、もうこれで終わり。
その追い詰められた地獄のような感覚を、数千回とやってきている。
でも、見よ!
ぼくはまだ、のうのうと生きておるがな!
この、どこが「臆病」なんじゃ。
あんな「えげつない」苦しみを何千回とあじわっても、まだニコニコして生きておる。
この、どこが、「神経質」なんじゃ。「繊細」なんじゃ。
「図太すぎる」といっても過言ではない。
「まじめ」とかも、そうです。
たしかにまじめなところは、あります。
でもてんでフザけたところも数え切れないぐらいある。
そして、ここからが重大なのですが、このことは、ぼくに限ったことではなかった!
人間「全員が」そうだった。
「神経質なひと」なんて、存在しないんですよね。
「ときに、神経質な反応をするときがある」
だけの話だったり、それが「目立っているかどうか」だけだったりする。
非常に神経質なひとにも、ビックリするぐらい無神経で鈍感なところがあったりする。
そして周囲から「あいつは神経質だ」と思われてる人に限って、いがいと自分ではそう思っていなかったりすることもある。
つまり「人からの評価には鈍感」。
こんなの、神経質っていう分類を疑うしかないです。
みんな、「ぜんぶ持ってる」。
それを、なんとなく目立っているような特性を「任意抽出して」、それをその人の性格だ、と暫定的に定義したのです。
そうしたほうが、理解しやすいような気がするから。
でもこの「理解しやすい」というのも、まったくの妄想です。
ひとのことなんか、ほんとうには理解できません。
家族でさえ、じぶんのことでさえ、真の意味では理解なんかできない。
ということはつまり「理解したつもりになりたい」という願望成就のために、「性格」というタグを発明しただけなのでした。
最も不愉快になるのは「自分で自分の性格を決めたとき」なんですよね。
とくにわたしは神経質だ、感受性が高い、繊細だ、気が弱いなど、どちらかというとネガティブな香りのする類型分類を自己にあてはめたときです。
ほんとうは、そのまったく真逆の特性を持っていることは完全に無視して、そのフォーカスしたインデックスだけをもって「これが私である」と決めてしまう。
ちなみに、血液型占いや星占いもそう。
あれをアホみたいな顔してほんとうに他人事にして、まんまるおめめで客観的に読めば、すべて「だれにでも当てはまる」ことが書いてある。
A型は神経質?
そんなもん、人間は「全員」神経質なところがあります
O型はおおらか?
んなもん、人間は「全員」おおらかなところがあります。
「言葉」に、騙されてしまったんだ。
そうしたほうが便利なこともあるかもしれない、というたいへん頼りない方法論に過ぎないものを「真実」と誤認した。
いわば、逆に道具に使われてしまったんだ。
だからもしかするとパニック障害だって、「ぼくがぼくを定義した」だけかもしれない。
「そうなるべきである」と、どこかで勘違いをしたのかもしれない。
おおらかで、のんびりやさんで、不真面目で、細かいことを気にしなくて、度胸がある。
そんな人は、パニック障害になりにくいと一般的にはいうのです。
待て!
待てコラ!
そんな特性、「ぼくもしっかり持っている」。
むしろ、その特性のほうが強いかもしれない。
あたりまえだ。
人間は、すべての特性を含有しているのですものね。
見る角度によって、どれかの特性がすこし手前に見えているだけだ。
性格なんか、存在しない!
ぼくたちは「性格という呪縛」に踊らされていただけかもしれない。
ひとはそんなに単純じゃないですもの。
弱そうに見えるひとでも、驚くほど強いココロを持っていることは往々にしてある。
むしろ気弱で臆病に見えるひとこそ「秘めたる強さ」を多く持っていたりもする。
いくら性格テストをしたって無駄である。
そこには「存在」という多次元立体を俯瞰演算する機能はない。
「ある角度から見たカタチ」を抽出するていどの機能しかない。
それは、あなたではない。
わたしではない。
わたしは、わたしである。
あなたは、あなたである。
彼は、彼である。
この至極当然の真実を「性格」という妄想定義が隠蔽している。
そんなものは、ない。
どこにも、ない。
性格なんて、存在しない。
キャラなんて、存在しない。
これに気づいただけで、とても自由になった気がしました。
肩のちからが、どっと抜けた。
どんな屁理屈をこねまわそうが、わたしはわたしである。
すべての人やモノは、その存在全体をもって「それ」である。名前などない。説明書きもない。
わたしのことは、わたしが決めているだけなのである。