いきいきとゆるむ

まーた寝坊して、歯を磨いてもなかなか真人間になれず「はやく真人間になりたい!」と願いつつ半人間のまま朝飯を食いながらテレビを観ておりましたら、まーた「うるっ」ときた。

 

高校の売店に入っているパンやさんがコロナ蔓延にともなう休校の影響をうけて、経営的に非常につらい局面にまで追い込まれたそうです。

そこで関係者や卒業生らが一計を案じ、SNSなどで「あのパン屋さんをすくえ!」と拡散したところ、近所の人だけでなく卒業生たちがこぞってそのパン屋さんのパンを買いに来たそうです。

「学生時代お世話になったパン屋さんがなくなってしまうのは悲しい」

その店の女将さんは、泣いていましたね。

純粋に人のやさしさに触れてうれしかったというのもあるのでしょうが、おそらくほんとうに「ヤバかった」のだと思います。

70年以上の歴史あるパン屋さんがコロナのせいで潰れてしまうところでしたが、「ちょっとした優しさ」が救った。

 

さいきんの「コロナ禍」では、たまにこういったハートフルなニュースが流れますね。

つい先日には、中学生が手作りマスクを600枚作って寄付をしたという素敵なお話もありました。

こういうニュースを観るたびに、うん、いいなあ、この社会も捨てたものじゃないなあと思います。

そしてぼくも、なにか人助けをしよう、と思える。

 

「そんなふうにすてきな行いをする人もいるというのに、コロナを利用して弱みに漬け込んで儲けようとするヤツぁいったい、うぬぬ、何考をえとんじゃ、ワーレー」的なことはいったん置いといてですね。

それよりもそんな「いい話」を聞いたとき、からだがどういう反応をしているかということに注目したいのであります。

やさしい気持ちになったとき、からだはどう反応しているか。

 

いきいきと、ゆるむのです。

 

「ゆるむ」だけではないのですよね。

同時にきちんと「覚醒」もする。

「ゆるむ」と「覚醒」は、一見相克するような感じもあるけれど、奇跡的にこれが両立するのである。

 

ヨガや気功などでは「ゆるむ」ということを大切にします。

目標としている、といっても過言ではないかもしれません。

一部の瞑想でもそれを推進することがある。

でももしかすると、これは観念の問題なのでしょうか、どうも「だらける」ということと混同してしまいそうになることがあります。

ゆるゆるにゆるめる、ということを、肉体操練の方向、あるいはイメージの方向から推進すると「ゆるみすぎてしまう」ということがあるんですよね。

結果、気力を喪失してしまうことがある。

そうすると虚無感のようなものに取り憑かれてしまって、すべては無意味なんだ、空虚なんだ、どうだっていいんだ、つまらないことなんだ、がんばることは悪なんだ、というような観念に至ってしまう。

この虚無感を仏教的な何かと連合させてしまって、これを一種の達観と捉える人さえいる。

ちがうと思う。

ぼくはそれは「病気」だと思うんですよね。

ゆるみすぎた結果、活力を失って、たましいが抜けていってしまった。

 

「こころのあたたかさ」を鍛えないまま理系的な屁理屈だけで脱力を繰り返すと「虚無」というトラップに引っかかってしまうのだと思います。

おそらく「虚無」と「空(くう)」は、似て非なるものである。

たしかに全身を脱力させるとたいへん心地よいです。

ゆるんでいることはとてもラクだし、おもいのほか強い力を生み出すこともできる。

しかしこの状態を独学だけで進めていくと、最後に「虚無」というブラックホールに吸い込まれてしまうかもしれない。

 

ゆるむ、のではなく、「いきいきとゆるむ」ことが必要なのではないか。

覚醒的弛緩。

そのために必要なのが、もしかしたら「愛」のようなものなのではないのでしょうか。

やさしさであるとか、いつくしみであるとか、慈悲であるとか、菩提心であるとか。

そういうものを無視ぶっこいて、肉体や精神の健康という物理側面だけを追求し、ただゆるめるゆるめるゆるめると願っていると、精神はくらやみに落ち込んでいくのかもしれない。

副交感神経はリラックスの神経といわれていて、これがやや優位であることは良いことだと言われる。

しかし副交感神経が優位になりすぎるとまさに「虚無」に支配されたような状態が多発するようになる。

無気力、うつ、パニック、アレルギーなど。

 

とてもハートフルですてきな話を聞いたとき。

あるいはひとに、やさしくされたとき。

あるいはひとに、やさしくしたとき。

そんなとき、からだはゆるむ、こころもゆるむ。

そしてこころの一部が、覚醒する。

ゆるんだからだと、めざめたこころ。

これが一致した状態が「いきいきとゆるむ」ということなのかもしれませんね。

 

ゲーテは言いました。

人間の最大の罪は不機嫌である。

不機嫌になってしまうのは、余裕を失ったときなんですよね。

追い詰められたとき。

だから自分自身や人のことを追い込んだり、追い詰めたりすることもまた「最大の罪」なのでしょう。

この罪を犯さないためには「ゆるみ」が必要ですよね。

考え込むのも、凝り性なのも、執念深いのも、根性ったれなのも、ストイックなのも、すべては罪を生む素養なのだ。

 

こころには、やさしさを。いきいきと、ゆるもう。

 

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