へー! 知らなかった。
座禅とひとくちにいっても、タイとかのテーラワーダ仏教(ふるい言い方では上座部)では、かならずしも結跏趺坐はしないんだそうです。
https://genuinedhammaintl.blogspot.com/2014/12/q.html
歩いていても、トイレに入っていても、つねに気づき続けることが基本。座っている間だけ努めて済むものではないのです。とにかく継続してサティを入れる(働かせる)ことが基本なのですから、「結跏趺坐して座り込む」という発想に合理的理由はないのです。だから好きに座ってください。
日本の禅宗では、足が悪いとかでなければ、基本的には結跏趺坐をさせると思います。
あと、姿勢にもかなりうるさい傾向もあるような。
やはり所変われば品かわるというか、考え方もちがうみたいです。
また、このような記事もありました。
http://rikunews.boo.jp/zen/if-you-want-to-extend-your-meditation-time-you-can-stop-tying
思い起こしてみれば、私が数年前に1日10時間の瞑想を9日間続けるヴィパッサナー瞑想のリトリートに参加したときも、試行錯誤のすえ、ばっさりと結跏趺坐を捨てた経験がある。
長い瞑想時間を乗り切るには、結跏趺坐は足にダメージを与えすぎる。
結局、いろいろやってみて達人坐という踵と踵を体の中心で合わせる座り方に落ち着いて、その座り方でいろいろとディープな瞑想体験ができた。
「この方法が唯一」というのはやはり、ないのでしょうね。
また、座禅に対する根本的な考え方のちがい、というのも感じました。
■ 重要なのは目的であって、カタチにとらわれてはいけない
というのが、上座部系の考え方なのかもしれないですね。
いっぽう日本の禅では、
■ 形式を守ることも含めて修行である
という考え方があるようです。
そもそも目的とか合理性とかじたいもすてちまうのが修行、っていう考え方もありますし。
ぼくには、どっちが正しいのかっていうのは、もちろんよくわかりません。
というか、ぼくはほんとうに、どっちも正しいと思えてしまうのです。
形式に執着するよりも目的を重視せよというのもすごく納得がいくし、形式を守ることも非常に大事なことだというのも、経験上よくわかります。
武道でも「型」というのはやっぱり重要で、これはいわば「自己点検」の意味合いもあります。
カタチをきちんとできていないと、予測しないところで不具合が出るというのは、あるんですよね。
それよりビックリしたのが、上座部系の座禅って、時間がむちゃくちゃ長いんですね。
お坊さんでもないのに3時間とか6時間とか瞑想するというのは、ちょっと驚きを禁じえません。
禅宗系の座禅は基本40分前後が一単位で、お坊さんじゃなければせいぜい30分もしたらけっこう長いほうなんじゃないでしょうか。
ま、ぼくはもともと自律神経がおかしいから、10分か15分しかやらないけど。
それにあんまり長い事やったら禅病になるからだめ、っていう話も聞いたことがあるんですよね。
上座部系と禅宗系では、修行というものに対する本質的なとらえかたが少しちがうのかもしれませんね。
どっちが正しいとか、どっちが真面目だとか、そういうことではなさそうです。
ぼくは個人的には、「結跏趺坐派」です。
ふつうのあぐらや、半跏趺坐、達人座といわれる座り方だと、ぎゃくに腰や背中がシンドイからです。
結跏趺坐だと、両足の甲でフトモモをがっちり固定できるので、腸腰筋が使いやすいんですよね。
そしたら骨盤が立ちやすいから、あんまり腰とか背中の筋肉を使わなくてすむ。よって呼吸がラク。
あと左右対称に限りなく近いから、ヒザが均等に地面について「三点確保」が容易で、安定しやすいというのもあります。油断しやすい。
達人座は上からみたら横長になるので前後の姿勢保持がむずかしく、不安定な感じになってしまうんですよね。
あんがい腹筋とかつかうし。
その点結跏趺坐は正三角形に近いカタチだから、すげー安定感があるんですよね。両膝とケツの三点で、ぴたっと止まる。
あぐらは、ありゃあ絶対に、まちがいなく腰いためます。きらい。こわい。
でもひとそれぞれ体型とか柔軟性とかあるから、結跏趺坐は最悪にきついという場合もあるのでしょう。
もしかしたら、いろんな派閥があるのは、そのせいかもしれませんね。
やっぱり合う、合わないがある。
どうしても合わないから、すこし変形させていって、派閥が生まれたんじゃないかな。
だからよその宗派とかに文句たれて、あれがちがう、これがちがう言うやつは、それこそ「修行が足らん」のかもしれませんね。
ま、どこかの宗教団体のことを言ってるわけでは、ないんですけどもね。