やまとことばで かんがえてみる

難しいことが理解できない理由のひとつに、「ことば」の問題が案外コソっと潜んでいるな、と思いました。

とくに仏教用語などは、難解至極といっても良いと思います。

 

先日のコロナウィルスに関する東京都知事のアナウンスで思ったのは、

「ああ、これが日本人のズルいところだな」

専門用語を横文字で、そのまま使ってしまうのです。

「パンデミック」とか「ロックダウン」「クラスター」「オーバーシュート」など。

むろん、専門用語をへたに訳すとちがう意味を持たせてしまう危険性もあるから、なんでもかんでも訳せば良いということではないです。

しかし、ちょっと「サボりすぎ」なんじゃないか、とは思いました。

 

仏教もそうです。

仏教はインドで生まれましたが、それが中国に入った時、中国人はぜんぶ中国語に翻訳をしました。

チベットに入ったら、チベット人はぜんぶチベット語に翻訳しました。

タイに入ったら、ぜんぶタイ語に翻訳されました。

しかし日本は、中国から輸入した仏典を、中国語のまま使用したのです。

「日本人はまじめだ」というけど、ぼくはこのことにとても懐疑的です。

じつは日本人というのは、世界一怠惰な人種なのではないか。

自身の国の言語に翻訳する事業はいちおう行ったものの、結局は専門家グループだけで知識の専有を行い、翻訳した仏典の普及には明確な行動を起こさなかった。

これはつまり、文化として実質的に受け入れられていないのではないか。

哲学のようなものは言語でできているから、じぶんたちが使う言語に翻訳することでさらに深く理解できると思うのです。

また自国の言語に翻訳することにより、専門家以外にもその概要を広く知らしめることができる。

 

入ってきたものを、入ってきたままに、消化せずそのまま丸呑みしようとするのです。

鵜だよね。鵜。

だから結局仏教哲学的な討論を見ていても「ことばあそび」の様相を呈していることもある。

もちろんちゃんと理解しているひともたくさんいるとは思うのですが、単語を手裏剣のように出すだけに終始するひともいて、そういうひとがいると、濁る。

そしていちばん怖いのは、用語をたくさん覚えて、その表面的な意味を覚えたら、もう理解したような勘違いをしてしまうことです。

 

外来の難解な用語はいったん「やまとことば」に訳してみると、その理解がより深まるのでは、と思うのです。

なんだかんだいってやっぱり大和言葉というのは我々日本人の「血肉」となっているところがあります。

最も身近で思考のベースになっている言語に翻訳することは、いろんなことの理解の一助になると思うのですよね。

 


 

むずかしいことが わきまえられないのは ことばの かべが おもいのほか こそっと ひそんで いるなと おもいました。

とくに ほとけのみちの ことばは、とても むずかしいと いって よいと おもいます。

 

ちかごろの コロナウィルスに かかわる 東京都知事の おはなしで おもったのは、

「ああ、これが やまとびとの ズルいところだな」

くろうとの ことばを よこもじで そのまま つかって しまうのです。

「パンデミック」とか「ロックダウン」「クラスター」「オーバーシュート」など。

むろん、くろうとの ことばを へたに いいかえると ちがう こころを もたせて しまう あやうさも あるから、なんでも かんでも いいかえれば よいということでは ないです。

しかし、ちょっと「なまけすぎ」なんではないか、とは おもいました。

 

ほとけのみちも そうです。

ほとけのみちは インドで うまれましたが、それが からのくにに はいったとき、からのひとは すべて からのことばに いいかえました。

チベットに はいったら、チベットの ひとは すべて チベットの ことばに いいかえました。

タイに はいったら、ぜんぶ タイの ことばに いいかえられました。

しかし やまとでは、からの くにから もちこんだ ほとけの ことばを、からの くにの ことばのまま つかったのです。

「やまとびとは まじめだ」というけど、わたしは このことを つよく うたがいます。

じつは やまとびとと いうのは、このよで もっとも なまけた ひとびとなのではないか。

おのれの くにの ことばに いいかえる ことは すすめたものの、ついには くろうとたちだけで しりえたことを しめてしまい、いいかえた ほとけのことばを ひろめることは あまりしなかった。

これはつまり、ならわしとして まさに うけいれられて いないのではないか。

ことわりのまなびの ような ことは ことばで できているから、おのれどもが つかう ことばに いいかえることで さらにふかく さとることが できると おもうのです。

また おのれの くにの ことばに いいかえる ことにより、くろうとどもの ほかにも その かなめを ひろく しらしめる ことが できる。

 

はいってきた ものを、はいってきた ままに、こなさず そのまま まるのみしようと するのです。

う だよね。う。

だから つまり ほとけの みちの ことわりの もめごとを みていても「ことばあそび」の かたちに なって いることが ある。

もちろん ちゃんと さとって いるひとも たくさん いるとは おもうのですが、ことばを かたなのように ふりわますだけの ひともいて、そういうひとが いると、にごる。

そして いちばん こわいのは、ことばを たくさん おぼえて、その うわべの こころを おぼえたら、もう さとったような おもいちがいを してしまう ことです。

そとのくにから きた むずかしい ことばは ひとたび 「やまとことば」に いいかえて みると、その さとりが より ふかまるのでは、と おもうのです。

なんだかんだいって やっぱり やまとことばと いうのは われわれ やまとびとの「ち と にく」となっている ところが あります。

もっとも みぢかで かんがえの いしずえに なっている ことばに いいかえる ことは、いろんな ことの さとりの てだすけに なると おもうのですよね。

 

あと、おもったよりも、よみやすいな。

ずっと、これで いこうかな。

 

 

  • ぽぽんた より:

    まえから おもっていたけれど 
    やっぱり てらちゃん
    かはいいなあ って

    しゅうし えがお で
    よみました (・ω<)*

    易しい が 優しい。

    やさしい が いちばん。˘ ˘*

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